の帯も、やはり嫁に来た時からすでに箪笥《たんす》の中にあったものなのだろうか。私は再び母に会って、万事をことごとく口ずから訊《き》いて見たい。
 悪戯《いたずら》で強情な私は、けっして世間の末《すえ》ッ子《こ》のように母から甘く取扱かわれなかった。それでも宅中《うちじゅう》で一番私を可愛《かわい》がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中《うち》には、いつでも籠《こも》っている。愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のある床《ゆか》しい婦人に違なかった。そうして父よりも賢《かし》こそうに誰の目にも見えた。気むずかしい兄も母だけには畏敬《いけい》の念を抱《いだ》いていた。
「御母《おっか》さんは何にも云わないけれども、どこかに怖《こわ》いところがある」
 私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出《ひっぱりだ》してくる事が今でもできる。しかしそれは水に融《と》けて流れかかった字体を、きっとなってやっと元の形に返したような際《きわ》どい私の記憶の断片に過ぎない。そのほかの事になると、私の母はすべて私にとって夢である。途切《とぎ》れ途切れに残
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