れからそれを机の上へ伏せて、口の内で今読んだ通りを暗誦《あんしょう》するのである。
 その下読が済むと、だんだん益さんが必要になって来る。庄さんもいつの間にかそこへ顔を出す。一番目の兄も、機嫌《きげん》の好い時は、わざわざ奥から玄関まで出張《でば》って来る。そうしてみんないっしょになって、益さんに調戯《からか》い始める。
「益さん、西洋人の所へ手紙を配達する事もあるだろう」
「そりゃ商売だから厭《いや》だって仕方がありません、持って行きますよ」
「益さんは英語ができるのかね」
「英語ができるくらいならこんな真似《まね》をしちゃいません」
「しかし郵便ッとか何とか大きな声を出さなくっちゃならないだろう」
「そりゃ日本語で間に合いますよ。異人だって、近頃は日本語が解りますもの」
「へええ、向《むこう》でも何とか云うのかね」
「云いますとも。ペロリの奥さんなんか、あなたよろしいありがとうと、ちゃんと日本語で挨拶《あいさつ》をするくらいです」
 みんなは益さんをここまでおびき出しておいて、どっと笑うのである。それからまた「益さん何て云うんだって、その奥さんは」と何遍も一つ事を訊《き》いては、いつまでも笑いの種にしようと巧《たく》らんでかかる。益さんもしまいには苦笑いをして、とうとう「あなたよろしい」をやめにしてしまう。すると今度は「じゃ益さん、野中《のなか》の一本杉《いっぽんすぎ》をやって御覧よ」と誰かが云い出す。
「やれったって、そうおいそれとやれるもんじゃありません」
「まあ好いから、おやりよ。いよいよ野中の一本杉の所まで参りますと……」
 益さんはそれでもにやにやして応じない。私はとうとう益さんの野中の一本杉というものを聴《き》かずにしまった。今考えると、それは何でも講釈か人情噺《にんじょうばなし》の一節じゃないかしらと思う。
 私の成人する頃には益さんももう宅《うち》へ来なくなった。おおかた死んだのだろう。生きていれば何か消息《たより》のあるはずである。しかし死んだにしても、いつ死んだのか私は知らない。

        二十七

 私は芝居というものに余り親しみがない。ことに旧劇は解らない。これは古来からその方面で発達して来た演芸上の約束を知らないので、舞台の上に開展《かいてん》される特別の世界に、同化する能力が私に欠けているためだとも思う。しかしそればかりではない。私が旧劇を見て、最も異様に感ずるのは、役者が自然と不自然の間を、どっちつかずにぶらぶら歩いている事である。それが私に、中腰《ちゅうごし》と云ったような落ちつけない心持を引き起させるのも恐らく理の当然なのだろう。
 しかし舞台の上に子供などが出て来て、甲《かん》の高い声で、憐《あわ》れっぽい事などを云う時には、いかな私でも知らず知らず眼に涙が滲《にじ》み出る。そうしてすぐ、ああ騙《だま》されたなと後悔する。なぜあんなに安っぽい涙を零《こぼ》したのだろうと思う。
「どう考えても騙されて泣くのは厭《いや》だ」と私はある人に告げた。芝居好のその相手は、「それが先生の常態なのでしょう。平生涙を控《ひか》え目《め》にしているのは、かえってあなたのよそゆきじゃありませんか」と注意した。
 私はその説に不服だったので、いろいろの方面から向《むこう》を納得させようとしているうちに、話題がいつか絵画の方に滑《すべ》って行った。その男はこの間参考品として美術協会に出た若冲《じゃくちゅう》の御物《ぎょぶつ》を大変に嬉《うれ》しがって、その評論をどこかの雑誌に載せるとかいう噂《うわさ》であった。私はまたあの鶏の図がすこぶる気に入らなかったので、ここでも芝居と同じような議論が二人の間に起った。
「いったい君に画《え》を論ずる資格はないはずだ」と私はついに彼を罵倒《ばとう》した。するとこの一言《いちごん》が本《もと》になって、彼は芸術一元論を主張し出した。彼の主意をかいつまんで云うと、すべての芸術は同じ源《みなもと》から湧《わ》いて出るのだから、その内の一つさえうんと腹に入れておけば、他は自《おの》ずから解し得られる理窟《りくつ》だというのである。座にいる人のうちで、彼に同意するものも少なくなかった。
「じゃ小説を作れば、自然柔道も旨《うま》くなるかい」と私が笑談《じょうだん》半分に云った。
「柔道は芸術じゃありませんよ」と相手も笑いながら答えた。
 芸術は平等観から出立するのではない。よしそこから出立するにしても、差別観《さべつかん》に入《い》って始めて、花が咲くのだから、それを本来の昔へ返せば、絵も彫刻も文章も、すっかり無に帰してしまう。そこに何で共通のものがあろう。たとい有ったにしたところで、実際の役には立たない。彼我共通の具体的のものなどの発見もできるはずがない。
 こういうのがその
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