》る汚《きた》ないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば佗《わ》びしかった。始終《しじゅう》通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼を惹《ひ》くものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐蝕《ふしょく》するような不愉快な塊《かたまり》が常にあった。私は陰欝《いんうつ》な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。
 日蔭町《ひかげちょう》の寄席《よせ》の前まで来た私は、突然一台の幌俥《ほろぐるま》に出合った。私と俥の間には何の隔《へだた》りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
 私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚《みと》れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧《ていねい》な会釈《えしゃく》を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶《あいさつ》とともに、相手が、大塚楠緒《おおつかくすお》さんであった事に、始めて気がついた。
 次に会ったのはそれから幾日目《いくかめ》だったろうか、楠緒《くすお》さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。
「実はどこの美くしい方《かた》かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
 その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔を赧《あか》らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
 それからずっと経《た》って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪《たず》ねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私は妻《さい》と喧嘩《けんか》をしていた。私は厭《いや》な顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
 その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へ詫《あや》まりに出かけた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々《にがにが》しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込《ひっこ》んでいたのです」
 これに対する楠緒さんの挨拶《あいさつ》も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事のできないほど、記憶の底に沈んでしまった。
 楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支《さしつかえ》ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺《かん》の中」という手向《たむけ》の句を楠緒さんのために咏《よ》んだ。それを俳句の好きなある男が嬉《うれ》しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。

        二十六

 益《ます》さんがどうしてそんなに零落《おちぶれ》たものか私には解らない。何しろ私の知っている益さんは郵便脚夫であった。益さんの弟の庄さんも、家《うち》を潰《つぶ》して私の所へ転《ころ》がり込んで食客《いそうろう》になっていたが、これはまだ益さんよりは社会的地位が高かった。小供の時分本町の鰯屋《いわしや》へ奉公に行っていた時、浜の西洋人が可愛《かわい》がって、外国へ連れて行くと云ったのを断ったのが、今考えると残念だなどと始終《しじゅう》話していた。
 二人とも私の母方の従兄《いとこ》に当る男だったから、その縁故で、益さんは弟《おとと》に会うため、また私の父に敬意を表するため、月に一遍ぐらいは、牛込の奥まで煎餅《せんべい》の袋などを手土産《てみやげ》に持って、よく訪ねて来た。
 益さんはその時何でも芝の外《はず》れか、または品川近くに世帯を持って、一人暮しの呑気《のんき》な生活を営んでいたらしいので、宅《うち》へ来るとよく泊まって行った。たまに帰ろうとすると、兄達が寄ってたかって、「帰ると承知しないぞ」などと威嚇《おどか》したものである。
 当時二番目と三番目の兄は、まだ南校《なんこう》へ通っていた。南校というのは今の高等商業学校の位置にあって、そこを卒業すると、開成学校すなわち今日《こんにち》の大学へ這入《はい》る組織《そしょく》になっていたものらしかった。彼らは夜になると、玄関に桐《きり》の机を並べて、明日《あした》の下読《したよみ》をする。下読と云ったところで、今の書生のやるのとはだいぶ違っていた。グードリッチの英国史といったような本を、一節ぐらいずつ読んで、そ
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