時の私の論旨《ろんし》であった。そうしてその論旨はけっして充分なものではなかった。もっと先方の主張を取り入れて、周到な解釈を下《くだ》してやる余地はいくらでもあったのである。
しかしその時座にいた一人《いちにん》が、突然私の議論を引き受けて相手に向い出したので、私も面倒だからついそのままにしておいた。けれども私の代りになったその男というのはだいぶ酔っていた。それで芸術がどうだの、文芸がどうだのと、しきりに弁ずるけれども、あまり要領を得た事は云わなかった。言葉|遣《づか》いさえ少しへべれけであった。初めのうちは面白がって笑っていた人達も、ついには黙ってしまった。
「じゃ絶交しよう」などと酔った男がしまいに云い出した。私は「絶交するなら外でやってくれ、ここでは迷惑だから」と注意した。
「じゃ外へ出て絶交しようか」と酔った男が相手に相談を持ちかけたが、相手が動かないので、とうとうそれぎりになってしまった。
これは今年の元日の出来事である。酔った男はそれからちょいちょい来るが、その時の喧嘩《けんか》については一口も云わない。
二十八
ある人が私の家《うち》の猫を見て、「これは何代目の猫ですか」と訊《き》いた時、私は何気なく「二代目です」と答えたが、あとで考えると、二代目はもう通り越して、その実《じつ》三代目になっていた。
初代は宿なしであったにかかわらず、ある意味からして、だいぶ有名になったが、それに引きかえて、二代目の生涯《しょうがい》は、主人にさえ忘れられるくらい、短命だった。私は誰がそれをどこから貰って来たかよく知らない。しかし手の掌《ひら》に載せれば載せられるような小さい恰好《かっこう》をして、彼がそこいら中《じゅう》這《は》い廻っていた当時を、私はまだ記憶している。この可憐な動物は、ある朝家のものが床を揚《あ》げる時、誤って上から踏み殺してしまった。ぐうという声がしたので、蒲団《ふとん》の下に潜《もぐ》り込《こ》んでいる彼をすぐ引き出して、相当の手当《てあて》をしたが、もう間に合わなかった。彼はそれから一日《いちんち》二日《ふつか》してついに死んでしまった。その後《あと》へ来たのがすなわち真黒な今の猫である。
私はこの黒猫を可愛《かわい》がっても憎《にく》がってもいない。猫の方でも宅中《うちじゅう》のそのそ歩き廻るだけで、別に私の傍《そば》へ寄りつこうという好意を現わした事がない。
ある時彼は台所の戸棚《とだな》へ這入って、鍋《なべ》の中へ落ちた。その鍋の中には胡麻《ごま》の油がいっぱいあったので、彼の身体《からだ》はコスメチックでも塗りつけたように光り始めた。彼はその光る身体で私の原稿紙の上に寝たものだから、油がずっと下まで滲《し》み通《とお》って私をずいぶんな目に逢《あ》わせた。
去年私の病気をする少し前に、彼は突然皮膚病に罹《かか》った。顔から額へかけて、毛がだんだん抜けて来る。それをしきりに爪で掻《か》くものだから、瘡葢《かさぶた》がぼろぼろ落ちて、痕《あと》が赤裸《あかはだか》になる。私はある日食事中この見苦しい様子を眺めて厭《いや》な顔をした。
「ああ瘡葢を零《こぼ》して、もし小供にでも伝染するといけないから、病院へ連れて行って早く療治をしてやるがいい」
私は家《うち》のものにこういったが、腹の中では、ことによると病気が病気だから全治しまいとも思った。昔《むか》し私の知っている西洋人が、ある伯爵から好い犬を貰って可愛《かわい》がっていたところ、いつかこんな皮膚病に悩まされ出したので、気の毒だからと云って、医者に頼んで殺して貰った事を、私はよく覚えていたのである。
「クロロフォームか何かで殺してやった方が、かえって苦痛がなくって仕合せだろう」
私は三四度《さんよたび》同じ言葉を繰《く》り返《かえ》して見たが、猫がまだ私の思う通りにならないうちに、自分の方が病気でどっと寝てしまった。その間私はついに彼を見る機会をもたなかった。自分の苦痛が直接自分を支配するせいか、彼の病気を考える余裕さえ出なかった。
十月に入《い》って、私はようやく起きた。そうして例のごとく黒い彼を見た。すると不思議な事に、彼の醜い赤裸の皮膚にもとのような黒い毛が生《は》えかかっていた。
「おや癒《なお》るのかしら」
私は退屈な病後の眼を絶えず彼の上に注いでいた。すると私の衰弱がだんだん回復するにつれて、彼の毛もだんだん濃くなって来た。それが平生の通りになると、今度は以前より肥え始めた。
私は自分の病気の経過と彼の病気の経過とを比較して見て、時々そこに何かの因縁《いんねん》があるような暗示を受ける。そうしてすぐその後から馬鹿らしいと思って微笑する。猫の方ではただにやにや鳴くばかりだから、どんな心持でいるのか
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