「あすこにいた御作という女を知ってるかね」と私は亭主に聞いた。
「知ってるどころか、ありゃ私の姪《めい》でさあ」
「そうかい」
 私は驚ろいた。
「それで、今どこにいるのかね」
「御作は亡《な》くなりましたよ、旦那」
 私はまた驚ろいた。
「いつ」
「いつって、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」
「へええ」
「しかも浦塩《ウラジオ》で亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」
 私は帰って硝子戸《ガラスど》の中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。

        十八

 私の座敷へ通されたある若い女が、「どうも自分の周囲《まわり》がきちんと片づかないで困りますが、どうしたら宜《よろ》しいものでしょう」と聞いた。
 この女はある親戚の宅《うち》に寄寓《きぐう》しているので、そこが手狭《てぜま》な上に、子供などが蒼蠅《うるさ》いのだろうと思った私の答は、すこぶる簡単であった。
「どこかさっぱりした家《うち》を探して下宿でもしたら好いでしょう」
「いえ部屋の事ではないので、頭の中がきちんと片づかないで困るのです」
 私は私の誤解を意識すると同時に、女の意味がまた解らなくなった。それでもう少し進んだ説明を彼女に求めた。
「外からは何でも頭の中に入って来ますが、それが心の中心と折合がつかないのです」
「あなたのいう心の中心とはいったいどんなものですか」
「どんなものと云って、真直《まっすぐ》な直線なのです」
 私はこの女の数学に熱心な事を知っていた。けれども心の中心が直線だという意味は無論私に通じなかった。その上中心とははたして何を意味するのか、それもほとんど不可解であった。女はこう云った。
「物には何でも中心がございましょう」
「それは眼で見る事ができ、尺度《ものさし》で計る事のできる物体についての話でしょう。心にも形があるんですか。そんならその中心というものをここへ出して御覧なさい」
 女は出せるとも出せないとも云わずに、庭の方を見たり、膝《ひざ》の上で両手を擦《す》ったりしていた。
「あなたの直線というのは比喩《たとえ》じゃありませんか。もし比喩なら、円《まる》と云っても四角と云っても、つまり同じ事になるのでしょう」
「そうかも知れませんが、形や色が始終《しじゅう》変っているうちに、少しも変らないものが、どうしてもあるのです」
「その変るものと変らないものが、別々だとすると、要するに心が二つある訳になりますが、それで好いのですか。変るものはすなわち変らないものでなければならないはずじゃありませんか」
 こう云った私はまた問題を元に返して女に向った。
「すべて外界のものが頭のなかに入って、すぐ整然と秩序なり段落なりがはっきりするように納まる人は、おそらくないでしょう。失礼ながらあなたの年齢《とし》や教育や学問で、そうきちん[#「きちん」に傍点]と片づけられる訳がありません。もしまたそんな意味でなくって、学問の力を借りずに、徹底的にどさりと納まりをつけたいなら、私のようなものの所へ来ても駄目《だめ》です。坊さんの所へでもいらっしゃい」
 すると女が私の顔を見た。
「私は始めて先生を御見上げ申した時に、先生の心はそういう点で、普通の人以上に整《とと》のっていらっしゃるように思いました」
「そんなはずがありません」
「でも私にはそう見えました。内臓の位置までが調《ととの》っていらっしゃるとしか考えられませんでした」
「もし内臓がそれほど具合よく調節されているなら、こんなに始終《しじゅう》病気などはしません」
「私は病気にはなりません」とその時女は突然自分の事を云った。
「それはあなたが私より偉い証拠《しょうこ》です」と私も答えた。
 女は蒲団《ふとん》を滑《すべ》り下りた。そうして、「どうぞ御身体《おからだ》を御大切《ごたいせつ》に」と云って帰って行った。

        十九

 私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、その実《じつ》小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、寂《さび》れ切《き》ってかつ淋《さむ》しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内《しゅびきうち》か朱引外か分らない辺鄙《へんぴ》な隅《すみ》の方にあったに違ないのである。
 それでも内蔵造《くらづくり》の家《うち》が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上《あが》ると、右側に見える近江屋伝兵衛《おうみやでんべえ》という薬種屋《やくしゅや》などはその一つであった。それから坂を下《お》り切《き》った所に、間口の
前へ 次へ
全32ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング