広い小倉屋《こくらや》という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛《ほりべやすべえ》が高田の馬場で敵《かたき》を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒《ますざけ》を飲んで行ったという履歴のある家柄《いえがら》であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂《うわさ》の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北《おきた》さんの長唄《ながうた》は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私の宅《うち》の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過《ひるすぎ》などに、私はよく恍惚《うっとり》とした魂を、麗《うらら》かな光に包みながら、御北さんの御浚《おさら》いを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を靠《も》たせて、佇立《たたず》んでいた事がある。その御蔭《おかげ》で私はとうとう「旅の衣《ころも》は篠懸《すずかけ》の」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。
このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋《かじや》も一軒あった。少し八幡坂《はちまんざか》の方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃ[#「やっちゃ」に傍点]場《ば》もあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋《とんや》の仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際《つきあい》からいうと、まるで疎濶《そかつ》であった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄《あいだがら》に過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水《ていすい》と好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞《ひとぎき》に聞いて覚えてはいるが、纏《まと》まった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立《やたて》と帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度に挙《あ》げて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじ[#「ろんじ」に傍点]だのがれん[#「がれん」に傍点]だのという符徴《ふちょう》を、罵《のの》しるように呼び上げるうちに、薑《しょうが》や茄子《なす》や唐《とう》茄子の籠《かご》が、それらの節太《ふしぶと》の手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。
どんな田舎《いなか》へ行ってもありがちな豆腐屋《とうふや》は無論あった。その豆腐屋には油の臭《におい》の染《し》み込《こ》んだ縄暖簾《なわのれん》がかかっていて門口《かどぐち》を流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗《きれい》だった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺《せいかんじ》という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後《うしろ》は、深い竹藪《たけやぶ》で一面に掩《おお》われているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤《おつとめ》の鉦《かね》の音《ね》は、今でも私の耳に残っている。ことに霧《きり》の多い秋から木枯《こがらし》の吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくて冷《つめ》たい或物を叩《たた》き込むように小さい私の気分を寒くした。
二十
この豆腐屋の隣に寄席《よせ》が一軒あったのを、私は夢幻《ゆめうつつ》のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場《ひとよせば》のあろうはずがないというのが、私の記憶に霞《かすみ》をかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
その席亭の主人《あるじ》というのは、町内の鳶頭《とびがしら》で、時々|目暗縞《めくらじま》の腹掛に赤い筋《すじ》の入った印袢纏《しるしばんてん》を着て、突っかけ草履《ぞうり》か何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤《おふじ》さんという娘があって、その人の容色《きりょう》がよく家《うち》のものの口に上《のぼ》った事も、まだ私の記憶を離れずにいる。後《のち》には養子を貰ったが、それが口髭《くちひげ》を生《は》やした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
この養子が来る時分には、もう寄席《よせ》もやめて、しもうた屋《や》になっていたようであるが、私はそこの宅《うち》
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