階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、方々様《ほうぼうさま》から御祝い物なんかあって、大変|御盛《ごさかん》でしたがね。それから後《あと》でしたっけか、行願寺《ぎょうがんじ》の寺内《じない》へ御引越なすったのは」
この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」
「変ったの変らないのってあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
私は肴町《さかなまち》を通るたびに、その寺内へ入る足袋屋《たびや》の角の細い小路《こうじ》の入口に、ごたごた掲《かか》げられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定《かんじょう》して見るほどの道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えば誰《た》が袖《そで》なんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東家《あずまや》ってね。ちょうどそら高田の旦那の真向《まんむこう》でしたろう、東家の御神灯《ごじんとう》のぶら下がっていたのは」
十七
私はその東家をよく覚えていた。従兄《いとこ》の宅《うち》のつい向《むこう》なので、両方のものが出入《ではい》りのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶《あいさつ》をし合うぐらいの間柄《あいだがら》であったから。
その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。この兄は大の放蕩《ほうとう》もので、よく宅の懸物《かけもの》や刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪い癖《くせ》があった。彼が何で従兄の家に転《ころ》がり込んでいたのか、その時の私には解らなかったけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働らいた結果、しばらく家《うち》を追い出されていたかも知れないと思う。その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。
こういう連中がいつでも一つ所に落ち合っては、寝そべったり、縁側《えんがわ》へ腰をかけたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子《たけごうし》の窓から、「今日《こんち》は」などと声をかけられたりする。それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、好いものあるから」とか何とか云って、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌《ごあいきょう》に遊びに来る。といった風の調子であった。
私はその頃まだ十七八だったろう、その上大変な羞恥屋《はにかみや》で通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙って隅《すみ》の方に引込《ひっこ》んでばかりいた。それでも私は何かの拍子《ひょうし》で、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何か奢《おご》らなければならないので、私は人の買った寿司《すし》や菓子をだいぶ食った。
一週間ほど経《た》ってから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話がだいぶはずんだ。その時|咲松《さきまつ》という若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云った。私は小倉《こくら》の袴《はかま》を穿《は》いて四角張っていたが、懐中には一銭の小遣《こづかい》さえ無かった。
「僕は銭《ぜに》がないから厭《いや》だ」
「好いわ、私《わたし》が持ってるから」
この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういいいい、綺麗《きれい》な襦袢《じゅばん》の袖《そで》でしきりに薄赤くなった二重瞼《ふたえまぶち》を擦《こす》っていた。
その後《ご》私は「御作《おさく》が好い御客に引かされた」という噂《うわさ》を、従兄《いとこ》の家《うち》で聞いた。従兄の家では、この女の事を咲松《さきまつ》と云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会も来《こ》ないだろうと考えた。
ところがそれからだいぶ経って、私が例の達人《たつじん》といっしょに、芝の山内《さんない》の勧工場《かんこうば》へ行ったら、そこでまたぱったり御作に出会った。こちらの書生姿に引《ひ》き易《か》えて、彼女はもう品《ひん》の好い奥様に変っていた。旦那というのも彼女の傍《そば》についていた。……
私は床屋の亭主の口から出た東家《あずまや》という芸者屋の名前の奥に潜《ひそ》んでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。
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