たらよかろうと思う。もし報酬問題とする気なら、最初から御礼はいくらするが、来てくれるかどうかと相談すべきはずでしょう」
その時K君は納得《なっとく》できないといったような顔をした。そうしてこう答えた。
「しかしどうでしょう。その十円はあなたの労力を買ったという意味でなくって、あなたに対する感謝の意を表する一つの手段と見たら。そう見る訳には行かないのですか」
「品物なら判然《はっきり》そう解釈もできるのですが、不幸にも御礼が普通営業的の売買《ばいばい》に使用する金なのですから、どっちとも取れるのです」
「どっちとも取れるなら、この際《さい》善意の方に解釈した方が好くはないでしょうか」
私はもっともだとも思った。しかしまたこう答えた。
「私は御存じの通り原稿料で衣食しているくらいですから、無論富裕とは云えません。しかしどうかこうか、それだけで今日《こんにち》を過ごして行かれるのです。だから自分の職業以外の事にかけては、なるべく好意的に人のために働いてやりたいという考えを持っています。そうしてその好意が先方に通じるのが、私にとっては、何よりも尊《たっ》とい報酬なのです。したがって金などを受けると、私が人のために働いてやるという余地、――今の私にはこの余地がまた極めて狭いのです。――その貴重な余地を腐蝕《ふしょく》させられたような心持になります」
K君はまだ私の云う事を肯《うけが》わない様子であった。私も強情であった。
「もし岩崎とか三井とかいう大富豪に講演を頼むとした場合に、後から十円の御礼を持って行くでしょうか、あるいは失礼だからと云って、ただ挨拶《あいさつ》だけにとどめておくでしょうか。私の考ではおそらく金銭は持って行くまいと思うのですが」
「さあ」といっただけでK君は判然した返事を与えなかった。私にはまだ云う事が少し残っていた。
「己惚《おのぼれ》かは知りませんが、私の頭は三井岩崎に比《くら》べるほど富んでいないにしても、一般学生よりはずっと金持に違いないと信じています」
「そうですとも」とK君は首肯《うなず》いた。
「もし岩崎や三井に十円の御礼を持って行く事が失礼ならば、私の所へ十円の御礼を持って来るのも失礼でしょう。それもその十円が物質上私の生活に非常な潤沢《うるおい》を与えるなら、またほかの意味からこの問題を眺める事もできるでしょうが、現に私はそれを他《ひと》にやろうとまで思ったのだから。――私の現下の経済的生活は、この十円のために、ほとんど目に立つほどの影響を蒙《こうむ》らないのだから」
「よく考えて見ましょう」といったK君はにやにや笑いながら帰って行った。
十六
宅《うち》の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈《か》って貰った事がある。
平生は白い金巾《かなきん》の幕で、硝子戸《ガラスど》の奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立って、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
亭主は私の入ってくるのを見ると、手に持った新聞紙を放《ほう》り出《だ》してすぐ挨拶《あいさつ》をした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私の後《うしろ》へ廻って、鋏《はさみ》をちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼は昔《むか》し寺町の郵便局の傍《そば》に店を持って、今と同じように、散髪を渡世《とせい》としていた事が解った。
「高田の旦那《だんな》などにもだいぶ御世話になりました」
その高田というのは私の従兄《いとこ》なのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知ってるどころじゃございません。始終《しじゅう》徳《とく》、徳《とく》、って贔屓《ひいき》にして下すったもんです」
彼の言葉|遣《づか》いはこういう職人にしてはむしろ丁寧《ていねい》な方であった。
「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚《びっくり》した調子で「へッ」と声を揚《あ》げた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつ頃《ごろ》御亡《おな》くなりになりました」
「なに、つい此間《こないだ》さ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
彼はそれからこの死んだ従兄《いとこ》について、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日《きのう》の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。
「あのそら求友亭《きゅうゆうてい》の横町にいらしってね、……」と亭主はまた言葉を継《つ》ぎ足した。
「うん、あの二階のある家《うち》だろう」
「ええ御二
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