そんな事はありません」と相手はすぐ答えた。あたかも私が今までその雑誌の特色を誤解していたごとくに。
「当り前の顔で構いませんなら載せていただいても宜《よろ》しゅうございます」
「いえそれで結構でございますから、どうぞ」
 私は相手と期日の約束をした上、電話を切った。
 中一日《なかいちにち》おいて打ち合せをした時間に、電話をかけた男が、綺麗《きれい》な洋服を着て写真機を携《たずさ》えて私の書斎に這入《はい》って来た。私はしばらくその人と彼の従事している雑誌について話をした。それから写真を二枚|撮《と》って貰った。一枚は机の前に坐っている平生の姿、一枚は寒い庭前《にわさき》の霜《しも》の上に立っている普通の態度であった。書斎は光線がよく透《とお》らないので、機械を据《す》えつけてからマグネシアを燃《も》した。その火の燃えるすぐ前に、彼は顔を半分ばかり私の方へ出して、「御約束ではございますが、少しどうか笑っていただけますまいか」と云った。私はその時突然|微《かす》かな滑稽《こっけい》を感じた。しかし同時に馬鹿な事をいう男だという気もした。私は「これで好いでしょう」と云ったなり先方の注文には取り合わなかった。彼が私を庭の木立《こだち》の前に立たして、レンズを私の方へ向けた時もまた前と同じような鄭寧《ていねい》な調子で、「御約束ではございますが、少しどうか……」と同じ言葉を繰《く》り返《かえ》した。私は前よりもなお笑う気になれなかった。
 それから四日ばかり経《た》つと、彼は郵便で私の写真を届けてくれた。しかしその写真はまさしく彼の注文通りに笑っていたのである。その時私は中《あて》が外《はず》れた人のように、しばらく自分の顔を見つめていた。私にはそれがどうしても手を入れて笑っているように拵《こしら》えたものとしか見えなかったからである。
 私は念のため家《うち》へ来る四五人のものにその写真を出して見せた。彼らはみんな私と同様に、どうも作って笑わせたものらしいという鑑定を下《くだ》した。
 私は生れてから今日《こんにち》までに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験が何度となくある。その偽《いつわ》りが今この写真師のために復讐《ふくしゅう》を受けたのかも知れない。
 彼は気味のよくない苦笑を洩《も》らしている私の写真を送ってくれたけれども、その写真を載せると云った雑誌はついに届けなかった。

        三

 私がHさんからヘクトーを貰った時の事を考えると、もういつの間にか三四年の昔になっている。何だか夢のような心持もする。
 その時彼はまだ乳離《ちばな》れのしたばかりの小供であった。Hさんの御弟子は彼を風呂敷《ふろしき》に包んで電車に載《の》せて宅《うち》まで連れて来てくれた。私はその夜《よ》彼を裏の物置の隅《すみ》に寝かした。寒くないように藁《わら》を敷いて、できるだけ居心地の好い寝床《ねどこ》を拵《こしら》えてやったあと、私は物置の戸を締《し》めた。すると彼は宵《よい》の口《くち》から泣き出した。夜中には物置の戸を爪で掻き破って外へ出ようとした。彼は暗い所にたった独《ひと》り寝るのが淋しかったのだろう、翌《あく》る朝《あさ》までまんじり[#「まんじり」に傍点]ともしない様子であった。
 この不安は次の晩もつづいた。その次《つぎ》の晩もつづいた。私は一週間余りかかって、彼が与えられた藁の上にようやく安らかに眠るようになるまで、彼の事が夜《よる》になると必ず気にかかった。
 私の小供は彼を珍らしがって、間《ま》がな隙《すき》がな玩弄物《おもちゃ》にした。けれども名がないのでついに彼を呼ぶ事ができなかった。ところが生きたものを相手にする彼らには、是非とも先方の名を呼んで遊ぶ必要があった。それで彼らは私に向って犬に名を命《つ》けてくれとせがみ出した。私はとうとうヘクトーという偉い名を、この小供達の朋友《ほうゆう》に与えた。
 それはイリアッドに出てくるトロイ一の勇将の名前であった。トロイと希臘《ギリシャ》と戦争をした時、ヘクトーはついにアキリスのために打たれた。アキリスはヘクトーに殺された自分の友達の讐《かたき》を取ったのである。アキリスが怒《いか》って希臘|方《がた》から躍《おど》り出した時に、城の中に逃げ込まなかったものはヘクトー一人であった。ヘクトーは三たびトロイの城壁をめぐってアキリスの鋒先《ほこさき》を避けた。アキリスも三たびトロイの城壁をめぐってその後《あと》を追いかけた。そうしてしまいにとうとうヘクトーを槍《やり》で突き殺した。それから彼の死骸《しがい》を自分の軍車《チャリオット》に縛《しば》りつけてまたトロイの城壁を三度|引《ひ》き摺《ず》り廻した。……
 私はこの偉大な名を、風呂敷包にして持って来た小さい犬に与
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