硝子戸の中
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)硝子戸《ガラスど》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二枚|撮《と》って貰った。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]
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一
硝子戸《ガラスど》の中《うち》から外を見渡すと、霜除《しもよけ》をした芭蕉《ばしょう》だの、赤い実《み》の結《な》った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来《こ》ない。書斎にいる私の眼界は極《きわ》めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。
その上私は去年の暮から風邪《かぜ》を引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり坐《すわ》っているので、世間の様子はちっとも分らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。
しかし私の頭は時々動く。気分も多少は変る。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来《く》る。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為《し》たりする。私は興味に充《み》ちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある。
私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。私はそうした種類の文字《もんじ》が、忙がしい人の眼に、どれほどつまらなく映るだろうかと懸念《けねん》している。私は電車の中でポッケットから新聞を出して、大きな活字だけに眼を注《そそ》いでいる購読者の前に、私の書くような閑散な文字を列《なら》べて紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。これらの人々は火事や、泥棒や、人殺しや、すべてその日その日の出来事のうちで、自分が重大と思う事件か、もしくは自分の神経を相当に刺戟《しげき》し得る辛辣《しんらつ》な記事のほかには、新聞を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕をもたないのだから。――彼らは停留所で電車を待ち合わせる間に、新聞を買って、電車に乗っている間に、昨日《きのう》起った社会の変化を知って、そうして役所か会社へ行き着くと同時に、ポッケットに収めた新聞紙の事はまるで忘れてしまわなければならないほど忙がしいのだから。
私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達の軽蔑《けいべつ》を冒《おか》して書くのである。
去年から欧洲では大きな戦争が始まっている。そうしてその戦争がいつ済むとも見当《けんとう》がつかない模様である。日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散になった。来《きた》るべき総選挙は政治界の人々にとっての大切な問題になっている。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だと零《こぼ》している。年中行事で云えば、春の相撲《すもう》が近くに始まろうとしている。要するに世の中は大変多事である。硝子戸の中にじっと坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂《すもうきょう》を押《お》し退《の》けて書く事になる。私だけではとてもそれほどの胆力が出て来ない。ただ春に何か書いて見ろと云われたから、自分以外にあまり関係のないつまらぬ事を書くのである。それがいつまでつづくかは、私の筆の都合《つごう》と、紙面の編輯《へんしゅう》の都合とできまるのだから、判然《はっきり》した見当は今つきかねる。
二
電話口へ呼び出されたから受話器を耳へあてがって用事を訊《き》いて見ると、ある雑誌社の男が、私の写真を貰《もら》いたいのだが、いつ撮《と》りに行って好いか都合を知らしてくれろというのである。私は「写真は少し困ります」と答えた。
私はこの雑誌とまるで関係をもっていなかった。それでも過去三四年の間にその一二冊を手にした記憶はあった。人の笑っている顔ばかりをたくさん載《の》せるのがその特色だと思ったほかに、今は何にも頭に残っていない。けれどもそこにわざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快の印象はいまだに消えずにいた。それで私は断《こと》わろうとしたのである。
雑誌の男は、卯年《うどし》の正月号だから卯年の人の顔を並べたいのだという希望を述べた。私は先方のいう通り卯年の生れに相違なかった。それで私はこう云った。――
「あなたの雑誌へ出すために撮《と》る写真は笑わなくってはいけないのでしょう」
「いえ
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