えたのである。何にも知らないはずの宅《うち》の小供も、始めは変な名だなあと云っていた。しかしじきに慣れた。犬もヘクトーと呼ばれるたびに、嬉《うれ》しそうに尾を振った。しまいにはさすがの名もジョンとかジォージとかいう平凡な耶蘇教信者《ヤソきょうしんじゃ》の名前と一様に、毫《ごう》も古典的《クラシカル》な響を私に与えなくなった。同時に彼はしだいに宅のものから元《もと》ほど珍重されないようになった。
 ヘクトーは多くの犬がたいてい罹《かか》るジステンパーという病気のために一時入院した事がある。その時は子供がよく見舞《みまい》に行った。私も見舞に行った。私の行った時、彼はさも嬉しそうに尾を振って、懐《なつ》かしい眼を私の上に向けた。私はしゃがんで私の顔を彼の傍《そば》へ持って行って、右の手で彼の頭を撫《な》でてやった。彼はその返礼に私の顔を所嫌《ところきら》わず舐《な》めようとしてやまなかった。その時彼は私の見ている前で、始めて医者の勧《すす》める小量の牛乳を呑《の》んだ。それまで首を傾《かし》げていた医者も、この分ならあるいは癒《なお》るかも知れないと云った。ヘクトーははたして癒った。そうして宅《うち》へ帰って来て、元気に飛び廻った。

        四

 日ならずして、彼は二三の友達を拵《こしら》えた。その中《うち》で最も親しかったのはすぐ前の医者の宅にいる彼と同年輩ぐらいの悪戯者《いたずらもの》であった。これは基督教徒《キリストきょうと》に相応《ふさわ》しいジョンという名前を持っていたが、その性質は異端者《いたんしゃ》のヘクトーよりも遥《はるか》に劣っていたようである。むやみに人に噛《か》みつく癖《くせ》があるので、しまいにはとうとう打《う》ち殺《ころ》されてしまった。
 彼はこの悪友を自分の庭に引き入れて勝手な狼藉《ろうぜき》を働らいて私を困らせた。彼らはしきりに樹の根を掘って用もないのに大きな穴を開《あ》けて喜んだ。綺麗《きれい》な草花の上にわざと寝転《ねころ》んで、花も茎も容赦《ようしゃ》なく散らしたり、倒したりした。
 ジョンが殺されてから、無聊《ぶりょう》な彼は夜遊《よあそ》び昼遊びを覚えるようになった。散歩などに出かける時、私はよく交番の傍《そば》に日向《ひなた》ぼっこをしている彼を見る事があった。それでも宅にさえいれば、よくうさん臭いものに吠《ほ》えついて見せた。そのうちで最も猛烈に彼の攻撃を受けたのは、本所辺から来る十歳《とお》ばかりになる角兵衛獅子《かくべえじし》の子であった。この子はいつでも「今日《こんち》は御祝い」と云って入って来る。そうして家《うち》の者から、麺麭《パン》の皮と一銭銅貨を貰わないうちは帰らない事に一人できめていた。だからヘクトーがいくら吠えても逃げ出さなかった。かえってヘクトーの方が、吠えながら尻尾《しっぽ》を股《また》の間に挟《はさ》んで物置の方へ退却するのが例になっていた。要するにヘクトーは弱虫であった。そうして操行からいうと、ほとんど野良犬《のらいぬ》と択《えら》ぶところのないほどに堕落していた。それでも彼らに共通な人懐《ひとなつ》っこい愛情はいつまでも失わずにいた。時々顔を見合せると、彼は必《かなら》ず尾を掉《ふ》って私に飛びついて来た。あるいは彼の背を遠慮なく私の身体《からだ》に擦《す》りつけた。私は彼の泥足のために、衣服や外套《がいとう》を汚《よご》した事が何度あるか分らない。
 去年の夏から秋へかけて病気をした私は、一カ月ばかりの間《あいだ》ついにヘクトーに会う機会を得ずに過ぎた。病《やまい》がようやく怠《おこた》って、床《とこ》の外へ出られるようになってから、私は始めて茶の間の縁《えん》に立って彼の姿を宵闇《よいやみ》の裡《うち》に認めた。私はすぐ彼の名を呼んだ。しかし生垣《いけがき》の根にじっとうずくまっている彼は、いくら呼んでも少しも私の情《なさ》けに応じなかった。彼は首も動かさず、尾も振らず、ただ白い塊《かたまり》のまま垣根にこびりついてるだけであった。私は一カ月ばかり会わないうちに、彼がもう主人の声を忘れてしまったものと思って、微《かす》かな哀愁《あいしゅう》を感ぜずにはいられなかった。
 まだ秋の始めなので、どこの間《ま》の雨戸も締《し》められずに、星の光が明け放たれた家の中からよく見られる晩であった。私の立っていた茶の間の縁には、家《うち》のものが二三人いた。けれども私がヘクトーの名前を呼んでも彼らはふり向きもしなかった。私がヘクトーに忘れられたごとくに、彼らもまたヘクトーの事をまるで念頭に置いていないように思われた。
 私は黙って座敷へ帰って、そこに敷いてある布団《ふとん》の上に横になった。病後の私は季節に不相当な黒八丈《くろはちじょう》の襟《えり》のかか
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