しいのです。だから私が何か云ったら、腹に答えべき或物を持っている以上、けっして黙っていてはいけません。こんな事を云ったら笑われはしまいか、恥を掻《か》きはしまいか、または失礼だといって怒られはしまいかなどと遠慮して、相手に自分という正体を黒く塗り潰《つぶ》した所ばかり示す工夫《くふう》をするならば、私がいくらあなたに利益を与えようと焦慮《あせっ》ても、私の射る矢はことごとく空矢《あだや》になってしまうだけです。
「これは私のあなたに対する注文ですが、その代り私の方でもこの私というものを隠しは致しません。ありのままを曝《さら》け出《だ》すよりほかに、あなたを教える途《みち》はないのです。だから私の考えのどこかに隙《すき》があって、その隙をもしあなたから見破られたら、私はあなたに私の弱点を握られたという意味で敗北の結果に陥《おちい》るのです。教を受ける人だけが自分を開放する義務をもっていると思うのは間違っています。教える人も己《おの》れをあなたの前に打ち明けるのです。双方とも社交を離れて勘破《かんぱ》し合うのです。
「そういう訳で私はこれからあなたの書いたものを拝見する時に、ずいぶん手ひどい事を思い切って云うかも知れませんが、しかし怒ってはいけません。あなたの感情を害するためにいうのではないのですから。その代りあなたの方でも腑《ふ》に落ちない所があったらどこまでも切り込んでいらっしゃい。あなたが私の主意を了解している以上、私はけっして怒るはずはありませんから。
「要するにこれはただ現状維持を目的として、上滑《うわすべ》りな円滑を主位に置く社交とは全く別物なのです。解りましたか」
 女は解ったと云って帰って行った。

        十二

 私に短冊《たんざく》を書けの、詩を書けのと云って来る人がある。そうしてその短冊やら絖《ぬめ》やらをまだ承諾もしないうちに送って来る。最初のうちはせっかくの希望を無にするのも気の毒だという考から、拙《まず》い字とは思いながら、先方の云うなりになって書いていた。けれどもこうした好意は永続しにくいものと見えて、だんだん多くの人の依頼を無にするような傾向が強くなって来た。
 私はすべての人間を、毎日毎日恥を掻《か》くために生れてきたものだとさえ考える事もあるのだから、変な字を他《ひと》に送ってやるくらいの所作《しょさ》は、あえてしようと思えば、やれないとも限らないのである。しかし自分が病気のとき、仕事の忙がしい時、またはそんな真似《まね》のしたくない時に、そういう注文が引き続いて起ってくると、実際弱らせられる。彼らの多くは全く私の知らない人で、そうして自分達の送った短冊を再び送り返すこちらの手数《てすう》さえ、まるで眼中に置いていないように見えるのだから。
 そのうちで一番私を不愉快にしたのは播州《ばんしゅう》の坂越《さごし》にいる岩崎という人であった。この人は数年前よく端書《はがき》で私に俳句を書いてくれと頼んで来たから、その都度《つど》向うのいう通り書いて送った記憶のある男である。その後《のち》の事であるが、彼はまた四角な薄い小包を私に送った。私はそれを開けるのさえ面倒だったから、ついそのままにして書斎へ放《ほう》り出《だ》しておいたら、下女が掃除《そうじ》をする時、つい書物と書物の間へ挟《はさ》み込んで、まず体《てい》よくしまい失《な》くした姿にしてしまった。
 この小包と前後して、名古屋から茶の缶が私宛《わたくしあて》で届いた。しかし誰が何のために送ったものかその意味は全く解らなかった。私は遠慮なくその茶を飲んでしまった。するとほどなく坂越の男から、富士登山の画《え》を返してくれと云ってきた。彼からそんなものを貰った覚《おぼえ》のない私は、打《う》ちやっておいた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑い出した。「大方《おおかた》気違だろう。」私は心の中でこうきめたなり向うの催促にはいっさい取り合わない事にした。
 それから二三カ月|経《た》った。たしか夏の初の頃と記憶しているが、私はあまり乱雑に取り散らされた書斎の中に坐《すわ》っているのがうっとうしくなったので、一人でぽつぽつそこいらを片づけ始めた。その時書物の整理をするため、好い加減に積み重ねてある字引や参考書を、一冊ずつ改めて行くと、思いがけなく坂越の男が寄こした例の小包が出て来た。私は今まで忘れていたものを、眼《ま》のあたり見て驚ろいた。さっそく封を解《と》いて中を検《しら》べたら、小さく畳んだ画が一枚入っていた。それが富士登山の図だったので、私はまた吃驚《びっくり》した。
 包のなかにはこの画のほかに手紙が一通添えてあって、それに画の賛をしてくれという依頼と、御礼に茶を送るという
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