の頭を撫《な》でて見せた。私のは白くなって、彼のは薄く禿《は》げかかっているのである。
「人間も樺太《かばふと》まで行けば、もう行く先はなかろうな」と私が調戯《からか》うと、彼は「まあそんなものだ」と答えて、私のまだ見た事のない樺太の話をいろいろして聞かせた。しかし私は今それをみんな忘れてしまった。夏は大変好い所だという事を覚えているだけである。
 私は幾年ぶりかで、彼といっしょに表へ出た。彼はフロックの上へ、とんび[#「とんび」に傍点]のような外套《がいとう》をぶわぶわに着ていた。そうして電車の中で釣革《つりかわ》にぶら下りながら、隠袋《かくし》から手帛《ハンケチ》に包んだものを出して私に見せた。私は「なんだ」と訊《き》いた。彼は「栗饅頭《くりまんじゅう》だ」と答えた。栗饅頭は先刻《さっき》彼が私の宅《うち》にいた時に出した菓子であった。彼がいつの間に、それを手帛に包んだろうかと考えた時、私はちょっと驚かされた。
「あの栗饅頭を取って来たのか」
「そうかも知れない」
 彼は私の驚いた様子を馬鹿にするような調子でこう云ったなり、その手帛《ハンケチ》の包をまた隠袋《かくし》に収めてしまった。
 我々はその晩帝劇へ行った。私の手に入れた二枚の切符に北側から入れという注意が書いてあったのを、つい間違えて、南側へ廻ろうとした時、彼は「そっちじゃないよ」と私に注意した。私はちょっと立ち留まって考えた上、「なるほど方角は樺太《かばふと》の方が確《たしか》なようだ」と云いながら、また指定された入口の方へ引き返した。
 彼は始めから帝劇を知っていると云っていた。しかし晩餐《ばんさん》を済ました後《あと》で、自分の席へ帰ろうとするとき、誰でもやる通り、二階と一階の扉《ドアー》を間違えて、私から笑われた。
 折々隠袋から金縁《きんぶち》の眼鏡《めがね》を出して、手に持った摺物《すりもの》を読んで見る彼は、その眼鏡を除《はず》さずに遠い舞台を平気で眺めていた。
「それは老眼鏡じゃないか。よくそれで遠い所が見えるね」
「なにチャブドー[#「チャブドー」に傍点]だ」
 私にはこのチャブドーという意味が全く解らなかった。彼はそれを大差なしという支那語だと云って説明してくれた。
 その夜の帰りに電車の中で私と別れたぎり、彼はまた遠い寒い日本の領地の北の端《はず》れに行ってしまった。
 私は彼を想《おも》い出すたびに、達人《たつじん》という彼の名を考える。するとその名がとくに彼のために天から与えられたような心持になる。そうしてその達人が雪と氷に鎖《と》ざされた北の果《はて》に、まだ中学校長をしているのだなと思う。

        十一

 ある奥さんがある女の人を私に紹介した。
「何か書いたものを見ていただきたいのだそうでございます」
 私は奥さんのこの言葉から、頭の中でいろいろの事を考えさせられた。今《いま》まで私の所へ自分の書いたものを読んでくれと云って来たものは何人となくある。その中には原稿紙の厚さで、一寸または二寸ぐらいの嵩《かさ》になる大部のものも交っていた。それを私は時間の都合の許す限りなるべく読んだ。そうして簡単な私はただ読みさえすれば自分の頼まれた義務を果《はた》したものと心得て満足していた。ところが先方では後から新聞に出してくれと云ったり、雑誌へ載せて貰《もら》いたいと頼んだりするのが常であった。中には他《ひと》に読ませるのは手段で、原稿を金に換えるのが本来の目的であるように思われるのも少なくはなかった。私は知らない人の書いた読みにくい原稿を好意的に読むのがだんだん厭《いや》になって来た。
 もっとも私の時間に教師をしていた頃から見ると、多少の弾力性ができてきたには相違なかった。それでも自分の仕事にかかれば腹の中はずいぶん多忙であった。親切ずくで見てやろうと約束した原稿すら、なかなか埒《らち》のあかない場合もないとは限らなかった。
 私は私の頭で考えた通りの事をそのまま奥さんに話した。奥さんはよく私のいう意味を領解して帰って行った。約束の女が私の座敷へ来て、座蒲団《ざぶとん》の上に坐ったのはそれから間もなくであった。佗《わ》びしい雨が今にも降り出しそうな暗い空を、硝子戸越《ガラスどごし》に眺めながら、私は女にこんな話をした。――
「これは社交ではありません。御互に体裁《ていさい》の好い事ばかり云い合っていては、いつまで経《た》ったって、啓発されるはずも、利益を受ける訳もないのです。あなたは思い切って正直にならなければ駄目《だめ》ですよ。自分さえ充分に開放して見せれば、今あなたがどこに立ってどっちを向いているかという実際が、私によく見えて来るのです。そうした時、私は始めてあなたを指導する資格を、あなたから与えられたものと自覚しても宜《よろ》
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