文句が書いてあった。私はいよいよ驚ろいた。
 しかしその時の私はとうてい富士登山の図などに賛をする勇気をもっていなかった。私の気分が、そんな事とは遥《はる》か懸《か》け離れた所にあったので、その画に調和するような俳句を考えている暇がなかったのである。けれども私は恐縮した。私は丁寧《ていねい》な手紙を書いて、自分の怠慢を謝した。それから茶の御礼を云った。最後に富士登山の図を小包にして返した。

        十三

 私はこれで一段落《いちだんらく》ついたものと思って、例の坂越《さごし》の男の事を、それぎり念頭に置かなかった。するとその男がまた短冊を封じて寄《よ》こした。そうして今度は義士に関係のある句を書いてくれというのである。私はそのうち書こうと云ってやった。しかしなかなか書く機会が来なかったので、ついそのままになってしまった。けれども執濃《しつこ》いこの男の方ではけっしてそのままに済ます気はなかったものと見えて、むやみに催促を始め出した。その催促は一週に一遍か、二週に一遍の割できっと来た。それが必ず端書《はがき》に限っていて、その書き出しには、必ず「拝啓失敬申し候えども」とあるにきまっていた。私はその人の端書を見るのがだんだん不愉快になって来た。
 同時に向うの催促も、今まで私の予期していなかった変な特色を帯びるようになった。最初には茶をやったではないかという言葉が見えた。私がそれに取り合わずにいると、今度はあの茶を返してくれという文句に改たまった。私は返す事はたやすいが、その手数《てかず》が面倒だから、東京まで取りに来れば返してやると云ってやりたくなった。けれども坂越の男にそういう手紙を出すのは、自分の品格に関《かか》わるような気がしてあえてし切れなかった。返事を受け取らない先方はなおの事催促をした。茶を返さないならそれでも好いから、金一円をその代価として送って寄こせというのである。私の感情はこの男に対してしだいに荒《すさ》んで来た。しまいにはとうとう自分を忘れるようになった。茶は飲んでしまった、短冊は失《な》くしてしまった、以来端書を寄こす事はいっさい無用であると書いてやった。そうして心のうちで、非常に苦々《にがにが》しい気分を経験した。こんな非紳士的な挨拶《あいさつ》をしなければならないような穴の中へ、私を追い込んだのは、この坂越の男であると思ったからである。こんな男のために、品格にもせよ人格にもせよ、幾分の堕落を忍ばなければならないのかと考えると情《なさけ》なかったからである。
 しかし坂越の男は平気であった。茶は飲んでしまい、短冊は失《な》くしてしまうとは、余りと申せば……とまた端書に書いて来た。そうしてその冒頭には依然として拝啓失敬申し候《そうら》えどもという文句が規則通り繰り返されていた。
 その時私はもうこの男には取り合うまいと決心した。けれども私の決心は彼の態度に対して何の効果のあるはずはなかった。彼は相変らず催促をやめなかった。そうして今度は、もう一度書いてくれれば、また茶を送ってやるがどうだと云って来た。それから事いやしくも義士に関するのだから、句を作っても好いだろうと云って来た。
 しばらく端書が中絶したと思うと、今度はそれが封書に変った。もっともその封筒は区役所などで使う極《きわ》めて安い鼠色《ねずみいろ》のものであったが、彼はわざとそれに切手を貼《は》らないのである。その代り裏に自分の姓名も書かずに投函《とうかん》していた。私はそれがために、倍の郵税を二度ほど払わせられた。最後に私は配達夫に彼の氏名と住所とを教えて、封のまま先方へ逆送して貰った。彼はそれで六銭取られたせいか、ようやく催促を断念したらしい態度になった。
 ところが二カ月ばかり経って、年が改まると共に、彼は私に普通の年始状を寄こした。それが私をちょっと感心させたので、私はつい短冊へ句を書いて送る気になった。しかしその贈物は彼を満足させるに足りなかった。彼は短冊が折れたとか、汚《よご》れたとか云って、しきりに書き直しを請求してやまない。現に今年の正月にも、「失敬申し候えども……」という依頼状が七八日《ななようか》頃に届いた。
 私がこんな人に出会ったのは生れて始めてである。

        十四

 ついこの間|昔《むか》し私の家《うち》へ泥棒の入った時の話を比較的|詳《くわ》しく聞いた。
 姉がまだ二人とも嫁《かた》づかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行《はや》ったやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中《よなか》に小用《こよう》に起きた後《あと》、手を洗うために、潜戸《くぐりど》を開けると、狭い中庭の隅《すみ》に、壁を圧《お》し
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