、女と共に沓脱《くつぬぎ》に下りた。
その時美くしい月が静かな夜《よ》を残る隈《くま》なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄《げた》の音はまるで聞こえなかった。私は懐手《ふところで》をしたまま帽子も被《かぶ》らずに、女の後《あと》に跟《つ》いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈《えしゃく》して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目《まじめ》に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、また宅《うち》の方へ引き返したのである。
むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれが尊《たっ》とい文芸上の作物《さくぶつ》を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。
八
不愉快に充《み》ちた人生をとぼとぼ辿《たど》りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも尊《たっ》とい」
こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来《おうらい》するようになった。
しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母《ふぼ》、私の祖父母《そふぼ》、私の曾祖父母《そうそふぼ》、それから順次に溯《さかの》ぼって、百年、二百年、乃至《ないし》千年万年の間に馴致《じゅんち》された習慣を、私一代で解脱《げだつ》する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
だから私の他《ひと》に与える助言《じょごん》はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人《いちにん》として他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
こうした言葉は、どんなに情《なさけ》なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠に赴《おも》むこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を凝《こ》らしている。こんな拷問《ごうもん》に近い所作《しょさ》が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着《しゅうちゃく》しているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷《きずつ》けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の面《おもて》を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱《だ》き締《し》めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷《てきず》そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。
私は彼女に向って、すべてを癒《いや》す「時」の流れに従って下《くだ》れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥《は》げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物《たからもの》を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈《はげ》しい生の歓喜を夢のように暈《ぼか》してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々《なまなま》しい苦痛も取《と》り除《の》ける手段を怠《おこ》たらないのである。
私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口《きずぐち》から滴《したた》る血潮を「時」に拭《ぬぐ》わしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。
かくして常に生よりも死を尊《たっと》いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充《み》ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸《ぼんよう》な自然主義者として証拠《しょうこ》立てたように
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