ょけん》の人から賛辞《さんじ》ばかり受けているのは、ありがたいようではなはだこそばゆいものである。実をいうと私は辟易《へきえき》した。
一週間おいて女は再び来た。そうして私の作物《さくぶつ》をまた賞《ほ》めてくれた。けれども私の心はむしろそういう話題を避けたがっていた。三度目に来た時、女は何かに感激したものと見えて、袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出して、しきりに涙を拭《ぬぐ》った。そうして私に自分のこれまで経過して来た悲しい歴史を書いてくれないかと頼んだ。しかしその話を聴かない私には何という返事も与えられなかった。私は女に向って、よし書くにしたところで迷惑を感ずる人が出て来はしないかと訊《き》いて見た。女は存外|判然《はっきり》した口調で、実名《じつみょう》さえ出さなければ構わないと答えた。それで私はとにかく彼女の経歴を聴《き》くために、とくに時間を拵《こしら》えた。
するとその日になって、女は私に会いたいという別の女の人を連れて来て、例の話はこの次に延ばして貰いたいと云った。私には固《もと》より彼女の違約を責める気はなかった。二人を相手に世間話をして別れた。
彼女が最後に私の書斎に坐《すわ》ったのはその次の日の晩であった。彼女は自分の前に置かれた桐《きり》の手焙《てあぶり》の灰を、真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》で突ッつきながら、悲しい身の上話を始める前、黙っている私にこう云った。
「この間は昂奮《こうふん》して私の事を書いていただきたいように申し上げましたが、それは止《や》めに致します。ただ先生に聞いていただくだけにしておきますから、どうかそのおつもりで……」
私はそれに対してこう答えた。
「あなたの許諾を得ない以上は、たといどんなに書きたい事柄《ことがら》が出て来てもけっして書く気遣《きづかい》はありませんから御安心なさい」
私が充分な保証を女に与えたので、女はそれではと云って、彼女の七八年前からの経歴を話し始めた。私は黙然《もくねん》として女の顔を見守っていた。しかし女は多く眼を伏せて火鉢《ひばち》の中ばかり眺めていた。そうして綺麗《きれい》な指で、真鍮の火箸を握っては、灰の中へ突き刺した。
時々|腑《ふ》に落ちないところが出てくると、私は女に向って短かい質問をかけた。女は単簡《たんかん》にまた私の納得《なっとく》できるように答をした。しかしたいていは自分一人で口を利《き》いていたので、私はむしろ木像のようにじっとしているだけであった。
やがて女の頬は熱《ほて》って赤くなった。白粉《おしろい》をつけていないせいか、その熱った頬の色が著るしく私の眼に着いた。俯向《うつむき》になっているので、たくさんある黒い髪の毛も自然私の注意を惹《ひ》く種になった。
七
女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛を極《きわ》めたものであった。彼女は私に向ってこんな質問をかけた。――
「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
私は返答に窮した。
「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」
私はどちらにでも書けると答えて、暗《あん》に女の気色《けしき》をうかがった。女はもっと判然した挨拶《あいさつ》を私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支《さしつかえ》ないでしょう。しかし美くしいものや気高《けだか》いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」
「先生はどちらを御択《おえら》びになりますか」
私はまた躊躇《ちゅうちょ》した。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖《こわ》くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻《ぬけがら》のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
私は女が今広い世間《せかい》の中にたった一人立って、一寸《いっすん》も身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。
私は服薬の時間を計るため、客の前も憚《はば》からず常に袂時計《たもとどけい》を座蒲団《ざぶとん》の傍《わき》に置く癖《くせ》をもっていた。
「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女は厭《いや》な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が更《ふ》けたから送って行って上げましょう」と云って
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