ぼ》の自筆なんだがね。僕の友達がそれを売りたいというので君に見せに来たんだが、買ってやらないか」
私は太田南畝という人を知らなかった。
「太田南畝っていったい何だい」
「蜀山人《しょくさんじん》の事さ。有名な蜀山人さ」
無学な私は蜀山人という名前さえまだ知らなかった。しかし喜いちゃんにそう云われて見ると、何だか貴重の書物らしい気がした。
「いくらなら売るのかい」と訊《き》いて見た。
「五十銭に売りたいと云うんだがね。どうだろう」
私は考えた。そうして何しろ価切《ねぎ》って見るのが上策だと思いついた。
「二十五銭なら買っても好い」
「それじゃ二十五銭でも構わないから、買ってやりたまえ」
喜いちゃんはこう云いつつ私から二十五銭受取っておいて、またしきりにその本の効能を述べ立てた。私には無論その書物が解らないのだから、それほど嬉《うれ》しくもなかったけれども、何しろ損はしないだろうというだけの満足はあった。私はその夜|南畝莠言《なんぽしゆうげん》――たしかそんな名前だと記憶しているが、それを机の上に載せて寝た。
三十二
翌日《あくるひ》になると、喜いちゃんがまたぶらりとやって来た。
「君|昨日《きのう》買って貰った本の事だがね」
喜いちゃんはそれだけ云って、私の顔を見ながらぐずぐずしている。私は机の上に載せてあった書物に眼を注いだ。
「あの本かい。あの本がどうかしたのかい」
「実はあすこの宅《うち》の阿爺《おやじ》に知れたものだから、阿爺が大変怒ってね。どうか返して貰って来てくれって僕に頼むんだよ。僕も一遍君に渡したもんだから厭《いや》だったけれども仕方がないからまた来たのさ」
「本を取りにかい」
「取りにって訳でもないけれども、もし君の方で差支《さしつかえ》がないなら、返してやってくれないか。何しろ二十五銭じゃ安過ぎるっていうんだから」
この最後の一言《いちごん》で、私は今まで安く買い得たという満足の裏に、ぼんやり潜《ひそ》んでいた不快、――不善の行為から起る不快――を判然《はっきり》自覚し始めた。そうして一方では狡猾《ずる》い私を怒《いか》ると共に、一方では二十五銭で売った先方を怒った。どうしてこの二つの怒りを同時に和《やわ》らげたものだろう。私は苦《にが》い顔をしてしばらく黙っていた。
私のこの心理状態は、今の私が小供の時の自分を
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