回顧して解剖するのだから、比較的|明瞭《めいりょう》に描き出されるようなものの、その場合の私にはほとんど解らなかった。私さえただ苦い顔をしたという結果だけしか自覚し得なかったのだから、相手の喜いちゃんには無論それ以上|解《わか》るはずがなかった。括弧《かっこ》の中でいうべき事かも知れないが、年齢《とし》を取った今日《こんにち》でも、私にはよくこんな現象が起ってくる。それでよく他《ひと》から誤解される。
喜いちゃんは私の顔を見て、「二十五銭では本当に安過ぎるんだとさ」と云った。
私はいきなり机の上に載せておいた書物を取って、喜いちゃんの前に突き出した。
「じゃ返そう」
「どうも失敬した。何しろ安公《やすこう》の持ってるものでないんだから仕方がない。阿爺《おやじ》の宅《うち》に昔からあったやつを、そっと売って小遣《こづかい》にしようって云うんだからね」
私はぷりぷりして何とも答えなかった。喜いちゃんは袂《ふところ》から二十五銭出して私の前へ置きかけたが、私はそれに手を触れようともしなかった。
「その金なら取らないよ」
「なぜ」
「なぜでも取らない」
「そうか。しかしつまらないじゃないか、ただ本だけ返すのは。本を返すくらいなら二十五銭も取りたまいな」
私はたまらなくなった。
「本は僕のものだよ。いったん買った以上は僕のものにきまってるじゃないか」
「そりゃそうに違いない。違いないが向《むこう》の宅《うち》でも困ってるんだから」
「だから返すと云ってるじゃないか。だけど僕は金を取る訳がないんだ」
「そんな解らない事を云わずに、まあ取っておきたまいな」
「僕はやるんだよ。僕の本だけども、欲しければやろうというんだよ。やるんだから本だけ持ってったら好いじゃないか」
「そうかそんなら、そうしよう」
喜いちゃんは、とうとう本だけ持って帰った。そうして私は何の意味なしに二十五銭の小遣を取られてしまったのである。
三十三
世の中に住む人間の一人《いちにん》として、私は全く孤立して生存する訳に行かない。自然|他《ひと》と交渉の必要がどこからか起ってくる。時候の挨拶《あいさつ》、用談、それからもっと込《こ》み入《い》った懸合《かけあい》――これらから脱却する事は、いかに枯淡な生活を送っている私にもむずかしいのである。
私は何でも他《ひと》のいう事を真《ま》
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