らいの割で病気をする。そうして床《とこ》についてから床を上げるまでに、ほぼ一月《ひとつき》の日数《ひかず》を潰《つぶ》してしまう。
 私の病気と云えば、いつもきまった胃の故障なので、いざとなると、絶食療法よりほかに手の着けようがなくなる。医者の命令ばかりか、病気の性質そのものが、私にこの絶食を余儀なくさせるのである。だから病み始めより回復期に向った時の方が、余計|痩《や》せこけてふらふらする。一カ月以上かかるのもおもにこの衰弱が祟《たた》るからのように思われる。
 私の立居《たちい》が自由になると、黒枠《くろわく》のついた摺物《すりもの》が、時々私の机の上に載せられる。私は運命を苦笑する人のごとく、絹帽《シルクハット》などを被《かぶ》って、葬式の供に立つ、俥《くるま》を駆《か》って斎場《さいじょう》へ駈《か》けつける。死んだ人のうちには、御爺さんも御婆さんもあるが、時には私よりも年歯《とし》が若くって、平生からその健康を誇っていた人も交《まじ》っている。
 私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多病な私はなぜ生き残っているのだろうかと疑って見る。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。
 私としてこういう黙想に耽《ふけ》るのはむしろ当然だといわなければならない。けれども自分の位地《いち》や、身体《からだ》や、才能や――すべて己《おの》れというもののおり所を忘れがちな人間の一人《いちにん》として、私は死なないのが当り前だと思いながら暮らしている場合が多い。読経《どきょう》の間ですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私という形骸《けいがい》を、ちっとも不思議と心得ずに澄ましている事が常である。
 或人が私に告げて、「他《ひと》の死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々|斃《たお》れるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう」と答えた。それから大学の理科に関係のある人に、飛行機の話を聴《き》かされた時に、こんな問答をした覚えもある。
「ああして始終《しじゅう》落ちたり死んだりしたら、後から乗るものは怖《こわ
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