なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。
 幕の間には役者に随《つ》いている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこの縮緬《ちりめん》の模様のある着物の上に袴《はかま》を穿《は》いた男の後《あと》に跟《つ》いて、田之助《たのすけ》とか訥升《とっしょう》とかいう贔屓《ひいき》の役者の部屋へ行って、扇子《せんす》に画《え》などを描《か》いて貰って帰ってくる。これが彼らの見栄《みえ》だったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。
 帰りには元《もと》来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。無要心《ぶようじん》だからと云って、下男がまた提灯《ちょうちん》を点《つ》けて迎《むかえ》に行く。宅《うち》へ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半《よなか》から夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。……
 こんな華麗《はなやか》な話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。
 もっとも私の家も侍分《さむらいぶん》ではなかった。派出《はで》な付合《つきあい》をしなければならない名主《なぬし》という町人であった。私の知っている父は、禿頭《はげあたま》の爺《じい》さんであったが、若い時分には、一中節《いっちゅうぶし》を習ったり、馴染《なじみ》の女に縮緬《ちりめん》の積夜具《つみやぐ》をしてやったりしたのだそうである。青山に田地《でんち》があって、そこから上って来る米だけでも、家《うち》のものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米を舂《つ》く音を始終《しじゅう》聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関《げんか》玄関と称《とな》えていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついた厳《いか》めしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒《つくぼう》や、袖搦《そでがらみ》や刺股《さつまた》や、また古ぼけた馬上《ばじょう》提灯などが、並んで懸《か》けてあった昔なら、私でもまだ覚えている。

        二十二

 この二三年来私はたいてい年に一度く
前へ 次へ
全63ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング