半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋《いちぜんめしや》もおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾《なわのれん》の隙間からあたたかそうな|煮〆《にしめ》の香《におい》が煙《けむり》と共に往来へ流れ出して、それが夕暮の靄《もや》に融《と》け込んで行く趣《おもむき》なども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木|哉《かな》」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

        二十一

 私の家に関する私の記憶は、惣《そう》じてこういう風に鄙《ひな》びている。そうしてどこかに薄ら寒い憐《あわ》れな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間《こないだ》、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。そんな派出《はで》な暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。
 その頃の芝居小屋はみんな猿若町《さるわかちょう》にあった。電車も俥《くるま》もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半《よなか》に起きて支度《したく》をした。途中が物騒《ぶっそう》だというので、用心のため、下男がきっと供《とも》をして行ったそうである。
 彼らは筑土《つくど》を下りて、柿の木横町から揚場《あげば》へ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期に充《み》ちた心をもって、のろのろ砲兵工厰《ほうへいこうしょう》の前から御茶の水を通り越して柳橋まで漕《こ》がれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。
 大川へ出た船は、流を溯《さかのぼ》って吾妻橋《あずまばし》を通り抜けて、今戸《いまど》の有明楼《ゆうめいろう》の傍《そば》に着けたものだという。姉達はそこから上《あが》って芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間《たかどま》に限られていた。これは彼らの服装《なり》なり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所
前へ 次へ
全63ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング