の軒先にまだ薄暗い看板が淋《さむ》しそうに懸《かか》っていた頃、よく母から小遣《こづかい》を貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟《なんりん》とかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男の家《うち》はどこにあったか知らないが、どの見当《けんとう》から歩いて来るにしても、道普請《みちぶしん》ができて、家並《いえなみ》の揃《そろ》った今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像を逞《たく》ましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし花魁《おいらん》え、と云われて八《や》ツ橋《はし》なんざますえとふり返る、途端《とたん》に切り込む刃《やいば》の光」という変な文句は、私がその時分南麟から教《おす》わったのか、それとも後《あと》になって落語家《はなしか》のやる講釈師の真似《まね》から覚えたのか、今では混雑してよく分らない。
当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠《ちゃばたけ》とか、竹藪《たけやぶ》とかまたは長い田圃路《たんぼみち》とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂《かぐらざか》まで出る例になっていたので、そうした必要に馴《な》らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来《やらい》の坂を上《あが》って酒井様の火《ひ》の見櫓《みやぐら》を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森《いんしん》として、大空が曇ったように始終《しじゅう》薄暗かった。
あの土手の上に二抱《ふたかかえ》も三抱《みかか》えもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間《すきま》隙間をまた大きな竹藪で塞《ふさ》いでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄《ひよりげた》などを穿《は》いて出ようものなら、きっと非道《ひど》い目にあうにきまっていた。あすこの霜融《しもどけ》は雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭に染《し》み込《こ》んでいる。
そのくらい不便な所でも火事の虞《おそれ》はあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子《はしご》が立っていた。そうしてその上に古い
前へ
次へ
全63ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング