]だのという符徴《ふちょう》を、罵《のの》しるように呼び上げるうちに、薑《しょうが》や茄子《なす》や唐《とう》茄子の籠《かご》が、それらの節太《ふしぶと》の手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。
どんな田舎《いなか》へ行ってもありがちな豆腐屋《とうふや》は無論あった。その豆腐屋には油の臭《におい》の染《し》み込《こ》んだ縄暖簾《なわのれん》がかかっていて門口《かどぐち》を流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗《きれい》だった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺《せいかんじ》という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後《うしろ》は、深い竹藪《たけやぶ》で一面に掩《おお》われているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤《おつとめ》の鉦《かね》の音《ね》は、今でも私の耳に残っている。ことに霧《きり》の多い秋から木枯《こがらし》の吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくて冷《つめ》たい或物を叩《たた》き込むように小さい私の気分を寒くした。
二十
この豆腐屋の隣に寄席《よせ》が一軒あったのを、私は夢幻《ゆめうつつ》のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場《ひとよせば》のあろうはずがないというのが、私の記憶に霞《かすみ》をかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
その席亭の主人《あるじ》というのは、町内の鳶頭《とびがしら》で、時々|目暗縞《めくらじま》の腹掛に赤い筋《すじ》の入った印袢纏《しるしばんてん》を着て、突っかけ草履《ぞうり》か何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤《おふじ》さんという娘があって、その人の容色《きりょう》がよく家《うち》のものの口に上《のぼ》った事も、まだ私の記憶を離れずにいる。後《のち》には養子を貰ったが、それが口髭《くちひげ》を生《は》やした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
この養子が来る時分には、もう寄席《よせ》もやめて、しもうた屋《や》になっていたようであるが、私はそこの宅《うち》
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