》いだろうね。今度はおれの番だという気になりそうなものだが、そうでないかしら」
「ところがそうでないと見えます」
「なぜ」
「なぜって、まるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいのです。やッぱりあいつは墜落して死んだが、おれは大丈夫だという気になると見えますね」
 私も恐らくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。それもそのはずである。死ぬまでは誰しも生きているのだから。
 不思議な事に私の寝ている間には、黒枠《くろわく》の通知がほとんど来ない。去年の秋にも病気が癒《なお》った後《あと》で、三四人の葬儀に列したのである。その三四人の中に社の佐藤君も這入《はい》っていた。私は佐藤君がある宴会の席で、社から貰った銀盃《ぎんぱい》を持って来て、私に酒を勧《すす》めてくれた事を思い出した。その時彼の踊った変な踊もまだ覚えている。この元気な崛強《くっきょう》な人の葬式《とむらい》に行った私は、彼が死んで私が生残っているのを、別段の不思議とも思わずにいる時の方が多い。しかし折々考えると、自分の生きている方が不自然のような心持にもなる。そうして運命がわざと私を愚弄《ぐろう》するのではないかしらと疑いたくなる。

        二十三

 今私の住んでいる近所に喜久井町《きくいちょう》という町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々|漂浪《ひょうろう》して帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来《ねごろ》の方まで延びていた。
 私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出す懐《なつ》かしい響を私に与えてくれない。しかし書斎に独《ひと》り坐って、頬杖《ほおづえ》を突いたまま、流れを下る舟のように、心を自由に遊ばせておくと、時々私の聯想《れんそう》が、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらく※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》し始める事がある。
 この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっと後《のち》になってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵《こしら》えたものに相違ないのである。
 私の家の定紋《じょうもん》が井桁《いげた》に菊なので、それに
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