つけるような勢《いきおい》で立っている梅の古木の根方《ねがた》が、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらす暇《いとま》もないうちに、すぐ潜戸を締《し》めてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらい鮮《あざや》かである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時|縁側《えんがわ》に立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確《はっきり》した輪廓《りんかく》を具えている鼻、人並《ひとなみ》より大きい二重瞼《ふたえまぶち》の眼、それから御沢《おさわ》という優しい名、――私はただこれらを綜合《そうごう》して、その場合における姉の姿を想像するだけである。
 しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念《けねん》が起った。それで彼女は思い切ってまた切戸《きりど》を開けて外を覗《のぞ》こうとする途端《とたん》に、一本の光る抜身《ぬきみ》が、闇《やみ》の中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身を後《あと》へ退《ひ》いた。その隙《ひま》に、覆面をした、龕灯提灯《がんどうぢょうちん》を提《さ》げた男が、抜刀のまま、小《ち》さい潜戸から大勢|家《うち》の中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数《にんず》はたしか八人とか聞いた。
 彼らは、他《ひと》を殺《あや》めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金を借《か》せと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今|角《かど》の小倉屋《こくらや》という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性《ふしょうぶしょう》に、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云っ
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