て、父は母を叱りつけたそうである。
 その事があって以来、私の家では柱を切《き》り組《くみ》にして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束《くろそうぞく》を着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組《きりくみ》にしてある柱かまるで分らなくなっていた。
 泥棒が出て行く時、「この家《うち》は大変|締《しま》りの好い宅《うち》だ」と云って賞《ほ》めたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦《かす》り傷《きず》がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅《うち》にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪《と》られずにしまった。
 私はこの話を妻《さい》から聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話《ちゃうけばなし》に聞いたのである。

        十五

 私が去年の十一月学習院で講演をしたら、薄謝と書いた紙包を後から届けてくれた。立派な水引《みずひき》がかかっているので、それを除《はず》して中を改めると、五円札が二枚入っていた。私はその金を平生から気の毒に思っていた、或懇意な芸術家に贈ろうかしらと思って、暗《あん》に彼の来るのを待ち受けていた。ところがその芸術家がまだ見えない先に、何か寄附の必要ができてきたりして、つい二枚とも消費してしまった。
 一口でいうと、この金は私にとってけっして無用なものではなかったのである。世間の通り相場で、立派に私のために消費されたというよりほかに仕方がないのである。けれどもそれを他《ひと》にやろうとまで思った私の主観から見れば、そんなにありがたみの附着していない金には相違なかったのである。打ち明けた私の心持をいうと、こうした御礼を受けるより受けない時の方がよほど颯爽《さっぱり》していた。
 畔柳芥舟《くろやなぎかいしゅう》君が樗牛会《ちょぎゅうかい》の講演の事で見えた時、私は話のついでとして一通りその理由を述べた。
「この場合私は労力を売りに行ったのではない。好意ずくで依頼に応じたのだから、向うでも好意だけで私に酬《むく》い
前へ 次へ
全63ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング