ある。こんな男のために、品格にもせよ人格にもせよ、幾分の堕落を忍ばなければならないのかと考えると情《なさけ》なかったからである。
しかし坂越の男は平気であった。茶は飲んでしまい、短冊は失《な》くしてしまうとは、余りと申せば……とまた端書に書いて来た。そうしてその冒頭には依然として拝啓失敬申し候《そうら》えどもという文句が規則通り繰り返されていた。
その時私はもうこの男には取り合うまいと決心した。けれども私の決心は彼の態度に対して何の効果のあるはずはなかった。彼は相変らず催促をやめなかった。そうして今度は、もう一度書いてくれれば、また茶を送ってやるがどうだと云って来た。それから事いやしくも義士に関するのだから、句を作っても好いだろうと云って来た。
しばらく端書が中絶したと思うと、今度はそれが封書に変った。もっともその封筒は区役所などで使う極《きわ》めて安い鼠色《ねずみいろ》のものであったが、彼はわざとそれに切手を貼《は》らないのである。その代り裏に自分の姓名も書かずに投函《とうかん》していた。私はそれがために、倍の郵税を二度ほど払わせられた。最後に私は配達夫に彼の氏名と住所とを教えて、封のまま先方へ逆送して貰った。彼はそれで六銭取られたせいか、ようやく催促を断念したらしい態度になった。
ところが二カ月ばかり経って、年が改まると共に、彼は私に普通の年始状を寄こした。それが私をちょっと感心させたので、私はつい短冊へ句を書いて送る気になった。しかしその贈物は彼を満足させるに足りなかった。彼は短冊が折れたとか、汚《よご》れたとか云って、しきりに書き直しを請求してやまない。現に今年の正月にも、「失敬申し候えども……」という依頼状が七八日《ななようか》頃に届いた。
私がこんな人に出会ったのは生れて始めてである。
十四
ついこの間|昔《むか》し私の家《うち》へ泥棒の入った時の話を比較的|詳《くわ》しく聞いた。
姉がまだ二人とも嫁《かた》づかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行《はや》ったやかましい頃なのである。
ある夜一番目の姉が、夜中《よなか》に小用《こよう》に起きた後《あと》、手を洗うために、潜戸《くぐりど》を開けると、狭い中庭の隅《すみ》に、壁を圧《お》し
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