に行かないので、気の狭い私は寝ながら大変苦しみ出した。そうしてしまいに大きな声を揚《あ》げて下にいる母を呼んだのである。
 二階の梯子段《はしごだん》は、母の大眼鏡と離す事のできない、生死事大《しょうじじだい》無常迅速《むじょうじんそく》云々と書いた石摺《いしずり》の張交《はりまぜ》にしてある襖《ふすま》の、すぐ後《うしろ》についているので、母は私の声を聞きつけると、すぐ二階へ上って来てくれた。私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼んだ。母はその時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母《おっか》さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云ってくれた。私は大変|嬉《うれ》しかった。それで安心してまたすやすや寝てしまった。
 私はこの出来事が、全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている。しかしどうしても私は実際大きな声を出して母に救を求め、母はまた実際の姿を現わして私に慰藉《いしゃ》の言葉を与えてくれたとしか考えられない。そうしてその時の母の服装《なり》は、いつも私の眼に映る通り、やはり紺無地《こんむじ》の絽《ろ》の帷子《かたびら》に幅の狭い黒繻子《くろじゅす》の帯だったのである。

        三十九

 今日は日曜なので、小供が学校へ行かないから、下女も気を許したものと見えて、いつもより遅く起きたようである。それでも私の床を離れたのは七時十五分過であった。顔を洗ってから、例の通り焼麺麭《トースト》と牛乳と半熟の鶏卵《たまご》を食べて、厠《かわや》に上《のぼ》ろうとすると、あいにく肥取《こいとり》が来ているので、私はしばらく出た事のない裏庭の方へ歩を移した。すると植木屋が物置の中で何か片づけものをしていた。不要の炭俵を重ねた下から威勢の好い火が燃えあがる周囲に、女の子が三人ばかり心持よさそうに煖を取っている様子が私の注意を惹《ひ》いた。
「そんなに焚火《たきび》に当ると顔が真黒になるよ」と云ったら、末の子が、「いやあーだ」と答えた。私は石垣の上から遠くに見える屋根瓦《やねがわら》の融《と》けつくした霜《しも》に濡《ぬ》れて、朝日にきらつく色を眺めたあと、また家《うち》の中へ引き返した。
 親類の子が来て掃除《そうじ》をしている書斎の整頓するのを待って、私は机を縁側《えんがわ》に持ち出した。そこで日当りの好い欄
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