の帯も、やはり嫁に来た時からすでに箪笥《たんす》の中にあったものなのだろうか。私は再び母に会って、万事をことごとく口ずから訊《き》いて見たい。
悪戯《いたずら》で強情な私は、けっして世間の末《すえ》ッ子《こ》のように母から甘く取扱かわれなかった。それでも宅中《うちじゅう》で一番私を可愛《かわい》がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中《うち》には、いつでも籠《こも》っている。愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のある床《ゆか》しい婦人に違なかった。そうして父よりも賢《かし》こそうに誰の目にも見えた。気むずかしい兄も母だけには畏敬《いけい》の念を抱《いだ》いていた。
「御母《おっか》さんは何にも云わないけれども、どこかに怖《こわ》いところがある」
私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出《ひっぱりだ》してくる事が今でもできる。しかしそれは水に融《と》けて流れかかった字体を、きっとなってやっと元の形に返したような際《きわ》どい私の記憶の断片に過ぎない。そのほかの事になると、私の母はすべて私にとって夢である。途切《とぎ》れ途切れに残っている彼女の面影《おもかげ》をいくら丹念に拾い集めても、母の全体はとても髣髴《ほうふつ》する訳に行かない。その途切《とぎれ》途切に残っている昔さえ、半《なか》ば以上はもう薄れ過ぎて、しっかりとは掴《つか》めない。
或時私は二階へ上《あが》って、たった一人で、昼寝をした事がある。その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。私の親指が見る間に大きくなって、いつまで経《た》っても留らなかったり、あるいは仰向《あおむき》に眺めている天井《てんじょう》がだんだん上から下りて来て、私の胸を抑《おさ》えつけたり、または眼を開《あ》いて普段と変らない周囲を現に見ているのに、身体《からだ》だけが睡魔の擒《とりこ》となって、いくらもがいても、手足を動かす事ができなかったり、後で考えてさえ、夢だか正気だか訳の分らない場合が多かった。そうしてその時も私はこの変なものに襲われたのである。
私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それを何の目的で何に遣《つか》ったのか、その辺も明瞭《めいりょう》でないけれども、小供の私にはとても償《つぐな》う訳
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