った銘仙《めいせん》のどてらを着ていた。私はそれを脱ぐのが面倒だから、そのまま仰向《あおむけ》に寝て、手を胸の上で組み合せたなり黙って天井《てんじょう》を見つめていた。
五
翌朝《あくるあさ》書斎の縁に立って、初秋《はつあき》の庭の面《おもて》を見渡した時、私は偶然また彼の白い姿を苔《こけ》の上に認めた。私は昨夕《ゆうべ》の失望を繰《く》り返《かえ》すのが厭《いや》さに、わざと彼の名を呼ばなかった。けれども立ったなりじっと彼の様子を見守らずにはいられなかった。彼は立木《たちき》の根方《ねがた》に据《す》えつけた石の手水鉢《ちょうずばち》の中に首を突き込んで、そこに溜《たま》っている雨水《あまみず》をぴちゃぴちゃ飲んでいた。
この手水鉢はいつ誰が持って来たとも知れず、裏庭の隅《すみ》に転《ころ》がっていたのを、引越した当時植木屋に命じて今の位置に移させた六角形《ろっかくがた》のもので、その頃は苔《こけ》が一面に生《は》えて、側面に刻みつけた文字《もんじ》も全く読めないようになっていた。しかし私には移す前一度|判然《はっきり》とそれを読んだ記憶があった。そうしてその記憶が文字として頭に残らないで、変な感情としていまだに胸の中を往来していた。そこには寺と仏と無常の匂《におい》が漂《ただよ》っていた。
ヘクトーは元気なさそうに尻尾《しっぽ》を垂れて、私の方へ背中を向けていた。手水鉢を離れた時、私は彼の口から流れる垂涎《よだれ》を見た。
「どうかしてやらないといけない。病気だから」と云って、私は看護婦を顧《かえり》みた。私はその時まだ看護婦を使っていたのである。
私は次の日も木賊《とくさ》の中に寝ている彼を一目見た。そうして同じ言葉を看護婦に繰り返した。しかしヘクトーはそれ以来姿を隠したぎり再び宅《うち》へ帰って来なかった。
「医者へ連れて行こうと思って、探したけれどもどこにもおりません」
家《うち》のものはこう云って私の顔を見た。私は黙っていた。しかし腹の中では彼を貰い受けた当時の事さえ思い起された。届書《とどけしょ》を出す時、種類という下へ混血児《あいのこ》と書いたり、色という字の下へ赤斑《あかまだら》と書いた滑稽《こっけい》も微《かす》かに胸に浮んだ。
彼がいなくなって約一週間も経《た》ったと思う頃、一二丁|隔《へだた》ったある人の家から
前へ
次へ
全63ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング