下女が使に来た。その人の庭にある池の中に犬の死骸《しがい》が浮いているから引き上げて頸輪《くびわ》を改ためて見ると、私の家の名前が彫《ほ》りつけてあったので、知らせに来たというのである。下女は「こちらで埋《う》めておきましょうか」と尋ねた。私はすぐ車夫《くるまや》をやって彼を引き取らせた。
 私は下女をわざわざ寄こしてくれた宅《うち》がどこにあるか知らなかった。ただ私の小供の時分から覚えている古い寺の傍《そば》だろうとばかり考えていた。それは山鹿素行《やまがそこう》の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古い榎《えのき》が一本立っているのが、私の書斎の北の縁から数多《あまた》の屋根を越してよく見えた。
 車夫は筵《むしろ》の中にヘクトーの死骸を包《くる》んで帰って来た。私はわざとそれに近づかなかった。白木《しらき》の小さい墓標を買って来《こ》さして、それへ「秋風の聞えぬ土に埋《う》めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家《うち》のものに渡して、ヘクトーの眠っている土の上に建てさせた。彼の墓は猫の墓から東北《ひがしきた》に当って、ほぼ一間ばかり離れているが、私の書斎の、寒い日の照らない北側の縁に出て、硝子戸《ガラスど》のうちから、霜《しも》に荒された裏庭を覗《のぞ》くと、二つともよく見える。もう薄黒く朽《く》ちかけた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々《なまなま》しく光っている。しかし間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼につかなくなるだろう。

        六

 私はその女に前後四五回会った。
 始めて訪《たず》ねられた時私は留守《るす》であった。取次のものが紹介状を持って来るように注意したら、彼女は別にそんなものを貰う所がないといって帰って行ったそうである。
 それから一日ほど経《た》って、女は手紙で直接《じか》に私の都合を聞き合せに来た。その手紙の封筒から、私は女がつい眼と鼻の間に住んでいる事を知った。私はすぐ返事を書いて面会日を指定してやった。
 女は約束の時間を違《たが》えず来た。三《み》つ柏《かしわ》の紋《もん》のついた派出《はで》な色の縮緬《ちりめん》の羽織を着ているのが、一番先に私の眼に映った。女は私の書いたものをたいてい読んでいるらしかった。それで話は多くそちらの方面へばかり延びて行った。しかし自分の著作について初見《し
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