ついて見せた。そのうちで最も猛烈に彼の攻撃を受けたのは、本所辺から来る十歳《とお》ばかりになる角兵衛獅子《かくべえじし》の子であった。この子はいつでも「今日《こんち》は御祝い」と云って入って来る。そうして家《うち》の者から、麺麭《パン》の皮と一銭銅貨を貰わないうちは帰らない事に一人できめていた。だからヘクトーがいくら吠えても逃げ出さなかった。かえってヘクトーの方が、吠えながら尻尾《しっぽ》を股《また》の間に挟《はさ》んで物置の方へ退却するのが例になっていた。要するにヘクトーは弱虫であった。そうして操行からいうと、ほとんど野良犬《のらいぬ》と択《えら》ぶところのないほどに堕落していた。それでも彼らに共通な人懐《ひとなつ》っこい愛情はいつまでも失わずにいた。時々顔を見合せると、彼は必《かなら》ず尾を掉《ふ》って私に飛びついて来た。あるいは彼の背を遠慮なく私の身体《からだ》に擦《す》りつけた。私は彼の泥足のために、衣服や外套《がいとう》を汚《よご》した事が何度あるか分らない。
去年の夏から秋へかけて病気をした私は、一カ月ばかりの間《あいだ》ついにヘクトーに会う機会を得ずに過ぎた。病《やまい》がようやく怠《おこた》って、床《とこ》の外へ出られるようになってから、私は始めて茶の間の縁《えん》に立って彼の姿を宵闇《よいやみ》の裡《うち》に認めた。私はすぐ彼の名を呼んだ。しかし生垣《いけがき》の根にじっとうずくまっている彼は、いくら呼んでも少しも私の情《なさ》けに応じなかった。彼は首も動かさず、尾も振らず、ただ白い塊《かたまり》のまま垣根にこびりついてるだけであった。私は一カ月ばかり会わないうちに、彼がもう主人の声を忘れてしまったものと思って、微《かす》かな哀愁《あいしゅう》を感ぜずにはいられなかった。
まだ秋の始めなので、どこの間《ま》の雨戸も締《し》められずに、星の光が明け放たれた家の中からよく見られる晩であった。私の立っていた茶の間の縁には、家《うち》のものが二三人いた。けれども私がヘクトーの名前を呼んでも彼らはふり向きもしなかった。私がヘクトーに忘れられたごとくに、彼らもまたヘクトーの事をまるで念頭に置いていないように思われた。
私は黙って座敷へ帰って、そこに敷いてある布団《ふとん》の上に横になった。病後の私は季節に不相当な黒八丈《くろはちじょう》の襟《えり》のかか
前へ
次へ
全63ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング