逼《せま》った問題を持って来たのである。
 私はこれら三人のために、私の云うべき事を云い、説明すべき事を説明したつもりである。それが彼らにどれほどの利益を与えたか、結果からいうとこの私にも分らない。しかしそれだけにしたところで私には満足なのである。「あなたの講演は解らなかったそうです」と云われた時よりも遥《はるか》に満足なのである。
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〔この稿が新聞に出た二三日あとで、私は高等工業の学生から四五通の手紙を受取った。その人々はみんな私の講演を聴いたものばかりで、いずれも私がここで述べた失望を打ち消すような事実を、反証として書いて来てくれたのである。だからその手紙はみな好意に充《み》ちていた。なぜ一学生の云った事を、聴衆全体の意見として速断するかなどという詰問的のものは一つもなかった。それで私はここに一言を附加して、私の不明を謝し、併《あわ》せて私の誤解を正してくれた人々の親切をありがたく思う旨《むね》を公けにするのである。〕
[#ここで字下げ終わり]

        三十五

 私は小供の時分よく日本橋の瀬戸物町《せとものちょう》にある伊勢本《いせもと》という寄席《よせ》へ講釈を聴きに行った。今の三越の向側《むこうがわ》にいつでも昼席の看板がかかっていて、その角《かど》を曲ると、寄席はつい小半町行くか行かない右手にあったのである。
 この席は夜になると、色物《いろもの》だけしかかけないので、私は昼よりほかに足を踏み込んだ事がなかったけれども、席数からいうと一番多く通《かよ》った所のように思われる。当時私のいた家は無論高田の馬場の下ではなかった。しかしいくら地理の便が好かったからと云って、どうしてあんなに講釈を聴きに行く時間が私にあったものか、今考えるとむしろ不思議なくらいである。
 これも今からふり返って遠い過去を眺めるせいでもあろうが、そこは寄席としてはむしろ上品な気分を客に起させるようにできていた。高座《こうざ》の右側《みぎわき》には帳場格子《ちょうばごうし》のような仕切《しきり》を二方に立て廻して、その中に定連《じょうれん》の席が設けてあった。それから高座の後《うしろ》が縁側《えんがわ》で、その先がまた庭になっていた。庭には梅の古木が斜《なな》めに井桁《いげた》の上に突き出たりして、窮屈な感じのしないほどの大空が、縁から仰がれるくらいに余
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