処女作追懐談
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)先《ま》ず
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)随分|呑気《のんき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64、306上−19]
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私の処女作――と言えば先《ま》ず『猫』だろうが、別に追懐する程のこともないようだ。ただ偶然ああいうものが出来たので、私はそういう時機に達して居たというまでである。
というのが、もともと私には何をしなければならぬということがなかった。勿論《もちろん》生きて居るから何かしなければならぬ。する以上は、自己の存在を確実にし、此処《ここ》に個人があるということを他にも知らせねばならぬ位の了見《りょうけん》は、常人と同じ様に持っていたかも知れぬ。けれども創作の方面で自己を発揮しようとは、創作をやる前迄も別段考えていなかった。
話が自分の経歴見たようなものになるが、丁度《ちょうど》私が大学を出てから間もなくのこと、或日外山正一氏から一寸《ちょっと》来いと言って来たので、行って見ると、教師をやって見てはどうかということである。私は別にやって見たいともやって見たくないとも思って居なかったが、そう言われて見ると、またやって見る気がないでもない。それで兎《と》に角《かく》やって見ようと思ってそういうと、外山さんは私を嘉納さんのところへやった。嘉納さんは高等師範の校長である。其処《そこ》へ行って先《ま》ず話を聴いて見ると、嘉納さんは非常に高いことを言う。教育の事業はどうとか、教育者はどうなければならないとか、迚《とて》も我々にはやれそうにもない。今なら話を三分の一に聴いて仕事も三分の一位で済《す》まして置くが、その時分は馬鹿正直だったので、そうは行かなかった。そこで迚も私には出来ませんと断ると、嘉納さんが旨《うま》い事をいう。あなたの辞退するのを見て益《ますます》依頼し度《た》くなったから、兎に角やれるだけやってくれとのことであった。そう言われて見ると、私の性質として又断り切れず、とうとう高等師範に勤めることになった。それが私のライフのスタートであった。
茲《ここ》で一寸話が大戻りをするが、私も十五六歳の頃は、漢書や小説などを読んで文学というものを面白く感じ、自分もやって見ようという気がしたので、それを亡《な》くなった兄に話して見ると、兄は文学は職業にゃならない、アッコンプリッシメントに過ぎないものだと云って、寧《むし》ろ私を叱った。然《しか》しよく考えて見るに、自分は何か趣味を持った職業に従事して見たい。それと同時にその仕事が何か世間に必要なものでなければならぬ。何故《なぜ》というのに、困ったことには自分はどうも変物である。当時変物の意義はよく知らなかった。然し変物を以て自《みずか》ら任じていたと見えて、迚《とて》も一々|此方《こちら》から世の中に度を合せて行くことは出来ない。何か己《おのれ》を曲げずして趣味を持った、世の中に欠くべからざる仕事がありそうなものだ。――と、その時分私の眼に映ったのは、今も駿河台《するがだい》に病院を持って居る佐々木博士の養父だとかいう、佐々木東洋という人だ。あの人は誰もよく知って居る変人だが、世間はあの人を必要として居る。而《しか》もあの人は己を曲ぐることなくして立派にやって行く。それから井上達也という眼科の医者が矢張《やはり》駿河台に居たが、その人も丁度《ちょうど》東洋さんのような変人で、而も世間から必要とせられて居た。そこで私は自分もどうかあんな風にえらくなってやって行きたいものと思ったのである。ところが私は医者は嫌《きら》いだ。どうか医者でなくて何か好い仕事がありそうなものと考えて日を送って居るうちに、ふと建築のことに思い当った。建築ならば衣食住の一つで世の中になくて叶《かな》わぬのみか、同時に立派な美術である。趣味があると共に必要なものである。で、私はいよいよそれにしようと決めた。
ところが丁度その時分(高等学校)の同級生に、米山保三郎という友人が居た。それこそ真性変物で、常に宇宙がどうの、人生がどうのと、大きなことばかり言って居る。ある日此男が訪《たず》ねて来て、例の如く色々哲学者の名前を聞かされた揚句《あげく》の果《はて》に君は何になると尋ねるから、実はこうこうだと話すと、彼は一も二もなくそれを却《しりぞ》けてしまった。其時かれは日本でどんなに腕を揮《ふる》ったって、セント・ポールズの大寺院のような建築を天下後世に残すことは出来ないじゃないかとか何とか言って、盛んなる大議論を吐いた。そしてそれよりもまだ文学の
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