方が生命があると言った。元来自分の考は此男の説よりも、ずっと実際的である。食べるということを基点として出立した考である。所が米山の説を聞いて見ると、何だか空々漠々《くうくうばくばく》とはしているが、大きい事は大きいに違ない。衣食問題などは丸《まる》で眼中に置いていない。自分はこれに敬服した。そう言われて見ると成程《なるほど》又そうでもあると、其晩即席に自説を撤回して、又文学者になる事に一決した。随分|呑気《のんき》なものである。
 然し漢文科や国文科の方はやりたくない。そこで愈《いよいよ》英文科を志望学科と定めた。
 然し其時分の志望は実に茫漠《ぼうばく》極《きわ》まったもので、ただ英語英文に通達して、外国語でえらい文学上の述作をやって、西洋人を驚かせようという希望を抱《いだ》いていた。所が愈大学へ這入《はい》って三年を過して居るうちに、段々其希望があやしくなって来て、卒業したときには、是《これ》でも学士かと思う様な馬鹿が出来上った。それでも点数がよかったので、人は存外信用してくれた。自分も世間へ対しては多少得意であった。ただ自分が自分に対すると甚《はなは》だ気の毒であった。そのうち愚図々々《ぐずぐず》しているうちに、この己れに対する気の毒が凝結し始めて、体《てい》のいい往生《レシグネーション》となった。わるく云えば立ち腐れを甘んずる様になった。其癖《そのくせ》世間へ対しては甚《はなは》だ気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64、306上−19]《きえん》が高い。何の高山の林公|抔《など》と思っていた。
 その中、洋行しないかということだったので、自分なんぞよりももっとどうかした人があるだろうから、そんな人を遣《や》ったらよかろうと言うと、まアそんなに言わなくても行って見たら可いだろうとのことだったので、そんなら行って見ても可いと思って行った。然し留学中に段々文学がいやになった。西洋の詩などのあるものをよむと、全く感じない。それを無理に嬉《うれ》しがるのは、何だかありもしない翅《つばさ》を生《は》やして飛んでる人のような、金がないのにあるような顔して歩いて居る人のような気がしてならなかった。所へ池田菊苗君が独乙《ドイツ》から来て、自分の下宿へ留った。池田君は理学者だけれども、話して見ると偉い哲学者であったには驚いた。大分議論をやって大分やられた事を今に記憶している。倫敦《ロンドン》で池田君に逢《あ》ったのは、自分には大変な利益であった。御蔭《おかげ》で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた。それから其方針で少しやって、全部の計画は日本でやり上げる積《つもり》で西洋から帰って来ると、大学に教えてはどうかということだったので、そんならそうしようと言って大学に出ることになった。(是《これ》も今云った自分の研究にはならないから、最初は断ったのである。)
 さて正岡子規君とは元からの友人であったので、私が倫敦《ロンドン》に居る時、正岡に下宿で閉口した模様を手紙にかいて送ると、正岡はそれを『ホトトギス』に載《の》せた。『ホトトギス』とは元から関係があったが、それが近因で、私が日本に帰った時(正岡はもう死んで居た)編輯者《へんしゅうしゃ》の虚子から何か書いて呉《く》れないかと嘱《たの》まれたので、始めて『吾輩は猫である』というのを書いた。所が虚子がそれを読んで、これは不可《いけ》ませんと云う。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸《まる》で忘れて仕舞《しま》ったが、兎《と》に角《かく》尤《もっと》もだと思って書き直した。
 今度は虚子が大いに賞《ほ》めてそれを『ホトトギス』に載せたが、実はそれ一回きりのつもりだったのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けというので、だんだん書いて居るうちにあんなに長くなって了《しま》った。というような訳だから、私はただ偶然そんなものを書いたというだけで、別に当時の文壇に対してどうこうという考も何もなかった。ただ書きたいから書き、作りたいから作ったまでで、つまり言えば、私がああいう時機に達して居たのである。もっとも書き初めた時と、終る時分とは余程《よほど》考が違って居た。文体なども人を真似《まね》るのがいやだったから、あんな風にやって見たに過ぎない。
 何しろそんな風で今日迄やって来たのだが、以上を綜合《そうごう》して考えると、私は何事に対しても積極的でないから、考えて自分でも驚ろいた。文科に入ったのも友人のすすめだし、教師になったのも人がそう言って呉《く》れたからだし、洋行したのも、帰って来て大学に勤めたのも、『朝日新聞』に入ったのも、小説を書いたのも、皆そうだ。だから私という者は、一方から言えば、他《ひと》が造って呉れたようなものである。



底本:「筑摩全集類
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