《おとろ》えて小《ちい》さく見えるのに引き易《か》えて、髯だけは健康な壮者を凌《しの》ぐ勢《いきおい》で延びて来た一種の対照を、気味悪くまた情《なさけ》なく感じたためでもあろう。
 大患に罹《かか》って生か死かと騒がれる余に、幾日かの怪しき時間は、生とも死とも片づかぬ空裏《くうり》に過ぎた。存亡の領域がやや明かになった頃、まず吾《わが》存在を確めたいと云う願から、とりあえず鏡を取ってわが顔を照らして見た。すると何年か前に世を去った兄の面影《おもかげ》が、卒然として冷かな鏡の裏を掠《かす》めて去った。骨ばかり意地悪く高く残った頬、人間らしい暖味《あたたかみ》を失った蒼《あお》く黄色い皮、落ち込んで動く余裕のない眼、それから無遠慮に延びた髪と髯、――どう見ても兄の記念であった。
 ただ兄の髪と髯が死ぬまで漆《うるし》のように黒かったのにかかわらず、余のそれらにはいつの間にか銀の筋が疎《まば》らに交っていた。考えて見ると兄は白髪《しらが》の生える前に死んだのである。死ぬとすればその方が屑《いさぎ》よいかも知れない。白髪に鬢《びん》や頬をぽつぽつ冒されながら、まだ生き延びる工夫《くふう》に余念
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