渡ったり、または細長い横木の上にわざと仰向《あおむけ》に寝たりして、ふざけまわる様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんな逞《たくま》しい体格になって見たいと羨《うらや》んだ事もあった。今はすべてが過去に化してしまった。再び眼の前に現れぬと云う不慥《ふたしか》な点において、夢と同じくはかない過去である。
病院を出る時の余は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。けれども、転地先で再度の病《やまい》に罹《かか》って、寝たまま東京へ戻って来《こ》ようとは思わなかった。東京へ戻ってもすぐ自分の家の門は潜《くぐ》らずに釣台《つりだい》に乗ったまま、また当時の病院に落ちつく運命になろうとはなおさら思いがけなかった。
帰る日は立つ修善寺《しゅぜんじ》も雨、着く東京も雨であった。扶《たす》けられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼に入《い》らなかった。目礼《もくれい》をする事のできたのはその中《うち》の二三に過ぎなかった。思うほどの会釈《えしゃく》もならないうちに余は早く釣台の上に横《よこた》えられていた。黄昏《たそがれ》の雨を防ぐために釣台には桐油《とうゆ》を掛けた。余は坑
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