る。それでも実は死なずにいた。そうして列仙伝を読んで子供の時の無邪気な努力を繰り返し得るほどに生き延びた。それだけでも弱い余に取っては非常な幸福である。その頃ある知らない人から、先生死にたもう事なかれ、先生死にたもうことなかれと書いた見舞を受けた。余は列仙伝を読むべく生き延びた余を悦《よろこ》ぶと同時に、この同情ある青年のために生き延びた余を悦んだ。

        七

 ウォードの著わした社会学の標題には力学的《ダイナミック》という形容詞をわざわざ冠《かん》してあるが、これは普通の社会学でない、力学的に論じたのだという事を特に断ったものと思われる。ところがこの本のかつて魯西亜語《ロシアご》に翻訳された時、魯国《ろこく》の当局者は直《ただ》ちにその発売を禁止してしまった。著者は不審の念に打たれて、その理由を在魯《ざいろ》の友人に聞き合せた。すると友人から、自分にもよくは分らぬが、おそらく標題に力学的という字と社会学《ソシオロジー》という字があるので、当局者は一も二もなくダイナマイト及び社会主義に関係のある恐ろしい著述と速断して、この暴挙をあえてしたのだろうという返事が来たそうである。
 魯国の当局者ではないが、余もこの力学的という言葉には少からぬ注意を払った一人である。平生から一般の学者がこの一字に着眼しないで、あたかも動きの取れぬ死物のように、研究の材料を取り扱いながらかえって平気でいるのを、常に飽《あ》き足らず眺めていたのみならず、自分と親密の関係を有する文芸上の議論が、ことにこの弊《へい》に陥《おちい》りやすく、また陥りつつあるように見えるのを遺憾《いかん》と批判していたから、参考のため、一度は魯国当局者を恐れしめたというこの力学的社会学なるものを一読したいと思っていた。実は自分の恥《はじ》を白状するようではなはだきまりが悪いが、これはけっして新しい本ではない。製本の体裁《ていさい》からしてがすでにスペンサーの綜合哲学《そうごうてつがく》に類した古風なものである。けれどもまた恐ろしく分厚《ぶあつ》に書き上げた著作で、上下二巻を通じて千五百頁ほどある大冊子だから、四五日はおろか一週間かかっても楽に読みこなす事はでき悪《にく》い。それでやむをえず時機の来るまでと思って、本箱の中へしまっておいたのを、小説類に興味を失《しっ》したこの頃の読物としては適当だろうとふと考えついたので、それを宅《うち》から取り寄せてとうとう力学的《ダイナミック》に社会学《ソシオロジー》を病院で研究する事にした。
 ところが読み出して見ると、恐ろしく玄関の広い前置の長い本であった。そうして肝心《かんじん》の社会学そのものになるとすこぶる不完全で、かつせっかくの頼みと思っているいわゆる力学的がはなはだ心細くなるほどに手荒に取扱われていた。今更ウォードの著述に批評を下《くだ》すのは余の目的でない、ただついでに云うだけではあるが、今に本当の力学的が出るだろう、今に高潮の力学的が出るだろうと、どこまでも著者を信用して、とうとう千五百頁の最後の一頁の最後の文字まで読み抜けて、そうして期待したほどのものがどこからも出て来なかった時には、ちょうどハレー彗星《すいせい》の尾で地球が包まれべき当日を、何の変化もなく無事に経過したほどあっけない心持がした。
 けれども道中は、道草を食うべく余儀なくされるだけそれだけ多趣多様で面白かった。その中《うち》で宇宙創造論《コスモジェニー》と云う厳《いか》めしい標題を掲げた所へ来た時、余は覚えず昔《むか》し学校で先生から教わった星雲説《せいうんせつ》の記憶を呼び起して微笑せざるを得なかった。そうしてふと考えた。――
 自分は今危険な病気からやっと回復しかけて、それを非常な仕合《しあわせ》のように喜んでいる。そうして自分の癒《なお》りつつある間に、容赦なく死んで行く知名の人々や惜しい人々を今少し生かしておきたいとのみ冀《こいねが》っている。自分の介抱《かいほう》を受けた妻や医者や看護婦や若い人達をありがたく思っている。世話をしてくれた朋友《ほうゆう》やら、見舞に来てくれた誰彼《たれかれ》やらには篤《あつ》い感謝の念を抱いている。そうしてここに人間らしいあるものが潜《ひそ》んでいると信じている。その証拠《しょうこ》にはここに始めて生き甲斐《がい》のあると思われるほど深い強い快よい感じが漲《みなぎ》っているからである。
 しかしこれは人間相互の関係である。よし吾々《われわれ》を宇宙の本位と見ないまでも、現在の吾々以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪の沙汰《さた》である。三世《さんぜ》に亘《わた》る生物全体の進化論と、(ことに)物理の原則に因《よ》って無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、その間に微《かす
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