》かな生を営む人間を考えて見ると、吾らごときものの一喜一憂は無意味と云わんほどに勢力のないという事実に気がつかずにはいられない。
限りなき星霜《せいそう》を経て固《かた》まりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお膨脹《ぼうちょう》して瓦斯《ガス》に変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日《こんにち》まで分離して運行した軌道と軌道の間が隙間《すきま》なく充《み》たされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰《じつげつせいしん》の区別を失って、爛《らん》たる一大火雲のごとくに盤旋《ばんせん》するだろう。さらに想像を逆《さか》さまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部の一片《いっぺん》を振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]々《えんえん》たる一塊《いっかい》の瓦斯に過ぎないという結論になる。面目の髣髴《ほうふつ》たる今日から溯《さかのぼ》って、科学の法則を、想像だも及ばざる昔に引張《ひっぱ》れば、一糸《いっし》も乱れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となったものには違かなろうが、この山とこの水とこの空気と太陽の御蔭《おかげ》によって生息する吾《われ》ら人間の運命は、吾らが生くべき条件の備わる間の一瞬時――永劫《えいごう》に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――を貪《むさ》ぼるに過ぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。
平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて心遣《こころづかい》さえした事がない。その心根《こころね》を糺《ただ》すと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――活溌《かっぱつ》なる酸素が地上の固形物と抱合《ほうごう》してしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、月球《げっきゅう》の表面に瓦斯《ガス》のかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く逝《ゆ》く他人を悲しみ、友を懐《なつか》しみ敵を悪《にく》んで、内輪だけの活計《かっけい》に甘んじて得意にその日を渡る訳には行くまい。
進んで無機有機を通じ、動植両界を貫《つらぬ》き、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間《すきま》なく発展して来た進化の歴史と見傚《みな》すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一|頁《ページ》を埋《うず》むべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭《ひゃくせきかんとう》に上《のぼ》りつめたと自任する人間の自惚《うぬぼれ》はまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯《さかのぼ》っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点《がてん》せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛《から》きジスイリュージョンを甞《な》めている。
種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一|疋《ぴき》の大口魚《たら》が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣《かき》になるとそれが二百万の倍数に上《のぼ》るという。そのうちで生長するのはわずか数匹《すひき》に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者《らんぴしゃ》であり、徳義上には恐るべく残酷な父母《ふぼ》である。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場を易《か》えて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当《しとう》の成行で、そこに喜びそこに悲しむ理窟《りくつ》は毫《ごう》も存在していないだろう。
こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分を易えて、この間|大磯《おおいそ》で亡《な》くなった大塚夫人の事を思い出しながら、夫人のために手向《たむけ》の句を作った。
[#ここから2字下げ]
有る程の菊|抛《な》げ入れよ棺《かん》の中
[#ここで字下げ終わり]
八
忘るべからざる八月二十四日の来《きた》る二週間ほど前から
前へ
次へ
全36ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング