然として同じ性情に活きつつある自己を悟ったりするので、スチーヴンソンの言葉ももっともと受けて、今日《きょう》まで世を経《へ》たようなものの、外部から萌《きざ》して来る老頽《ろうたい》の徴候を、幾茎《いくけい》かの白髪に認めて、健康の常時とは心意の趣《おもむき》を異《こと》にする病裡《びょうり》の鏡に臨んだ刹那《せつな》の感情には、若い影はさらに射《さ》さなかったからである。
 白髪に強《し》いられて、思い切りよく老《おい》の敷居を跨《また》いでしまおうか、白髪を隠して、なお若い街巷《ちまた》に徘徊《はいかい》しようか、――そこまでは鏡を見た瞬間には考えなかった。また考える必要のないまでに、病める余は若い人々を遠くに見た。病気に罹《かか》る前、ある友人と会食したら、その友人が短かく刈《か》った余の揉上《もみあげ》を眺めて、そこから白髪に冒《おか》されるのを苦にしてだんだん上の方へ剃《す》り上《あ》げるのではないかと聞いた。その時の余にはこう聞かれるだけの色気は充分あった。けれども病《やまい》に罹《かか》った余は、白髪《しらが》を看板にして事をしたいくらいまでに諦《あきら》めよく落ちついていた。
 病の癒《い》えた今日《こんにち》の余は、病中の余を引き延ばした心に活きているのだろうか、または友人と食卓についた病気前《びょうきぜん》の若さに立ち戻っているだろうか。はたしてスチーヴンソンの云った通りを歩く気だろうか、または中年に死んだ彼の言葉を否定してようやく老境に進むつもりだろうか。――白髪と人生の間に迷うものは若い人たちから見たらおかしいに違ない。けれども彼等若い人達にもやがて墓と浮世の間に立って去就を決しかねる時期が来るだろう。
[#ここから2字下げ]
桃花馬上少年時[#「桃花馬上少年時」に白丸傍点]。 笑拠銀鞍払柳枝[#「笑拠銀鞍払柳枝」に白丸傍点]。
緑水至今迢逓去[#「緑水至今迢逓去」に白丸傍点]。 月明来照鬢如糸[#「月明来照鬢如糸」に白丸傍点]。
[#ここで字下げ終わり]

        三十二

 初めはただ漠然《ばくぜん》と空を見て寝ていた。それからしばらくしていつ帰れるのだろうと思い出した。ある時はすぐにも帰りたいような心持がした。けれども床の上に起き直る気力すらないものが、どうして汽車に揺られて半日の遠きを行くに堪《た》え得ようかと考えると、帰りたいと念ずる自分がかなり馬鹿気て見えた。したがって傍《はた》のものに自分はいつ帰れるかと問《と》い糺《ただ》した事もなかった。同時に秋は幾度の昼夜を巻いて、わが心の前を過ぎた。空はしだいに高くかつ蒼《あお》くわが上を掩《おお》い始めた。
 もう動かしても大事なかろうと云う頃になって、東京から別に二人の医者を迎えてその意見を確めたら、今二週間の後《のち》にと云う挨拶《あいさつ》であった。挨拶があった翌日《あくるひ》から余は自分の寝ている地と、寝ている室《へや》を見捨るのが急に惜しくなった。約束の二週間がなるべくゆっくり廻転するようにと冀《ねが》った。かつて英国にいた頃、精一杯《せいいっぱい》英国を悪《にく》んだ事がある。それはハイネが英国を悪んだごとく因業《いんごう》に英国を悪んだのである。けれども立つ間際《まぎわ》になって、知らぬ人間の渦《うず》を巻いて流れている倫敦《ロンドン》の海を見渡したら、彼らを包む鳶色《とびいろ》の空気の奥に、余の呼吸に適する一種の瓦斯《ガス》が含まれているような気がし出した。余は空を仰いで町の真中《まなか》に佇《たた》ずんだ。二週間の後この地を去るべき今の余も、病む躯《からだ》を横《よこた》えて、床《とこ》の上に独《ひと》り佇ずまざるを得なかった。余は特に余のために造って貰った高さ一尺五寸ほどの偉大な藁蒲団《わらぶとん》に佇ずんだ。静かな庭の寂寞《せきばく》を破る鯉《こい》の水を切る音に佇ずんだ。朝露《あさつゆ》に濡《ぬ》れた屋根瓦《やねがわら》の上を遠近《おちこち》と尾を揺《うご》かし歩く鶺鴒《せきれい》に佇ずんだ。枕元の花瓶《かへい》にも佇ずんだ。廊下のすぐ下をちょろちょろと流れる水の音《ね》にも佇ずんだ。かくわが身を繞《めぐ》る多くのものに※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》しつつ、予定の通り二週間の過ぎ去るのを待った。
 その二週間は待ち遠いはがゆさもなく、またあっけない不足もなく普通の二週間のごとくに来て、尋常の二週間のごとくに去った。そうして雨の濛々《もうもう》と降る暁を最後の記念として与えた。暗い空を透《す》かして、余は雨かと聞いたら、人は雨だと答えた。
 人は余を運搬する目的をもって、一種妙なものを拵《こし》らえて、それを座敷の中《うち》に舁《か》き入《い》れた。長さは六尺もあったろう、幅はわずか
前へ 次へ
全36ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング