二尺に足らないくらい狭かった。その一部は畳を離れて一尺ほどの高さまで上に反《そ》り返《かえ》るように工夫してあった。そうして全部を白い布《ぬの》で捲《ま》いた。余は抱かれて、この高く反った前方に背を託して、平たい方に足を長く横たえた時、これは葬式だなと思った。生きたものに葬式と云う言葉は穏当でないが、この白い布で包んだ寝台《ねだい》とも寝棺《ねがん》とも片のつかないものの上に横になった人は、生きながら葬《とむら》われるとしか余には受け取れなかった。余は口の中で、第二の葬式と云う言葉をしきりに繰り返した。人の一度は必ずやって貰う葬式を、余だけはどうしても二|返《へん》執行しなければすまないと思ったからである。
舁《か》かれて室《へや》を出るときは平《たいら》であったが、階子段《はしごだん》を降りる際《きわ》には、台が傾いて、急に輿《こし》から落ちそうになった。玄関に来ると同宿の浴客《よくかく》が大勢並んで、左右から白い輿を目送《もくそう》していた。いずれも葬式の時のように静かに控えていた。余の寝台はその間を通り抜けて、雨の降る庇《ひさし》の外に担《かつ》ぎ出された。外にも見物人はたくさんいた。やがて輿を竪《たて》に馬車の中に渡して、前後相対する席と席とで支えた。あらかじめ寸法を取って拵《こし》らえたので、輿はきっしりと旨《うま》く馬車の中に納った。馬は降る中を動き出した。余は寝ながら幌《ほろ》を打つ雨の音を聞いた。そうして、御者台《ぎょしゃだい》と幌の間に見える窮屈な空間から、大きな岩や、松や、水の断片をありがたく拝した。竹藪《たけやぶ》の色、柿紅葉《かきもみじ》、芋《いも》の葉、槿垣《むくげがき》、熟した稲の香《か》、すべてを見るたびに、なるほど今はこんなものの有るべき季節であると、生れ返ったように憶《おも》い出しては嬉《うれ》しがった。さらに進んでわが帰るべき所には、いかなる新らしい天地が、寝ぼけた古い記憶を蘇生せしむるために展開すべく待ち構えているだろうかと想像して独《ひと》り楽しんだ。同時に昨日《きのう》まで※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》した藁蒲団《わらぶとん》も鶺鴒《せきれい》も秋草も鯉《こい》も小河もことごとく消えてしまった。
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万事休時一息回[#「万事休時一息回」に白丸傍点]。 余生豈忍比残灰[#「余生豈忍比残灰」に白丸傍点]。
風過古澗秋声起[#「風過古澗秋声起」に白丸傍点]。 日落幽篁瞑色来[#「日落幽篁瞑色来」に白丸傍点]。
漫道山中三月滞[#「漫道山中三月滞」に白丸傍点]。 ※[#「言+巨」、第3水準1−92−4]知門外一天開[#「※[#「言+巨」、第3水準1−92−4]知門外一天開」に白丸傍点]。
帰期勿後黄花節[#「帰期勿後黄花節」に白丸傍点]。 恐有羇魂夢旧苔[#「恐有羇魂夢旧苔」に白丸傍点]。
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三十三
正月を病院でした経験は生涯《しょうがい》にたった一遍《いっぺん》しかない。
松飾りの影が眼先に散らつくほど暮が押しつまった頃、余は始めてこの珍らしい経験を目前に控えた自分を異様に考え出した。同時にその考《かんがえ》が単に頭だけに働らいて、毫《ごう》も心臓の鼓動に響を伝えなかったのを不思議に思った。
余は白い寝床《ベッド》の上に寝ては、自分と病院と来《きた》るべき春とをかくのごとくいっしょに結びつける運命の酔興《すいきょう》さ加減を懇《ねんご》ろに商量《しょうりょう》した。けれども起き直って机に向ったり、膳《ぜん》に着いたりする折は、もうここが我家《わがいえ》だと云う気分に心を任《まか》して少しも怪しまなかった。それで歳は暮れても春は逼《せま》っても別に感慨と云うほどのものは浮ばなかった。余はそれほど長く病院にいて、それほど親しく患者の生活に根をおろしたからである。
いよいよ大晦日《おおみそか》が来た時、余は小《ち》さい松を二本買って、それを自分の病室の入口に立てようかと思った。しかし松を支えるために釘《くぎ》を打ち込んで美くしい柱に創《きず》をつけるのも悪いと思ってやめにした。看護婦が表へ出て梅でも買って参りましょうと云うから買って貰う事にした。
この看護婦は修善寺《しゅぜんじ》以来余が病院を出るまで半年《はんねん》の間|始終《しじゅう》余の傍《そば》に附き切りに附いていた女である。余はことさらに彼の本名を呼んで町井石子嬢《まちいいしこじょう》町井石子嬢と云っていた。時々は間違えて苗字《みょうじ》と名前を顛倒《てんどう》して、石井町子嬢とも呼んだ。すると看護婦は首を傾《かし》げながらそう改めた方が好いようでございますねと云った。しまいには遠慮がなくなって、とうとう鼬《いたち》と云う渾名《あ
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