く思い出した時、始めて蜀紅葵《しょっこうあおい》とか云う燃えるような赤い花弁《はなびら》を見た。留守居の婆さんに銭《ぜに》をやって、もっと折らせろと云ったら、銭は要《い》りません、花は預かり物だから上げられませんと断わったそうである。余はその話を聞いて、どんな所に花が咲いていて、どんな婆さんがどんな顔をして花の番をしているか、見たくてたまらなかった。蜀紅葵の花弁《はなびら》は燃えながら、翌日《あくるひ》散ってしまった。
桂川《かつらがわ》の岸伝いに行くといくらでも咲いていると云うコスモスも時々病室を照らした。コスモスはすべての中《うち》で最も単簡《たんかん》でかつ長く持った。余はその薄くて規則正しい花片と、空《くう》に浮んだように超然と取り合わぬ咲き具合とを見て、コスモスは干菓子《ひがし》に似ていると評した。なぜですかと聞いたものがあった。範頼《のりより》の墓守《はかもり》の作ったと云う菊を分けて貰って来たのはそれからよほど後《のち》の事である。墓守は鉢に植えた菊を貸して上げようかと云ったそうである。この墓守の顔も見たかった。しまいには畠山《はたけやま》の城址《しろあと》からあけびと云うものを取って来て瓶《へい》に挿《はさ》んだ。それは色の褪《さ》めた茄子《なす》の色をしていた。そうしてその一つを鳥が啄《つつ》いて空洞《うつろ》にしていた。――瓶に挿《さ》す草と花がしだいに変るうちに気節はようやく深い秋に入《い》った。
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日似三春永[#「日似三春永」に白丸傍点]。 心随野水空[#「心随野水空」に白丸傍点]。
牀頭花一片[#「牀頭花一片」に白丸傍点]。 閑落小眠中[#「閑落小眠中」に白丸傍点]。
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三十一
若い時兄を二人失った。二人とも長い間|床《とこ》についていたから、死んだ時はいずれも苦しみ抜いた病《やまい》の影を肉の上に刻《きざ》んでいた。けれどもその長い間に延びた髪と髯《ひげ》は、死んだ後《あと》までも漆《うるし》のように黒くかつ濃かった。髪はそれほどでもないが、剃《そ》る事のできないで不本意らしく爺々汚《じじむさ》そうに生えた髯《ひげ》に至っては、見るから憐《あわ》れであった。余は一人の兄の太く逞《たくま》しい髯の色をいまだに記憶している。死ぬ頃の彼の顔がいかにも気の毒なくらい瘠《や》せ衰《おとろ》えて小《ちい》さく見えるのに引き易《か》えて、髯だけは健康な壮者を凌《しの》ぐ勢《いきおい》で延びて来た一種の対照を、気味悪くまた情《なさけ》なく感じたためでもあろう。
大患に罹《かか》って生か死かと騒がれる余に、幾日かの怪しき時間は、生とも死とも片づかぬ空裏《くうり》に過ぎた。存亡の領域がやや明かになった頃、まず吾《わが》存在を確めたいと云う願から、とりあえず鏡を取ってわが顔を照らして見た。すると何年か前に世を去った兄の面影《おもかげ》が、卒然として冷かな鏡の裏を掠《かす》めて去った。骨ばかり意地悪く高く残った頬、人間らしい暖味《あたたかみ》を失った蒼《あお》く黄色い皮、落ち込んで動く余裕のない眼、それから無遠慮に延びた髪と髯、――どう見ても兄の記念であった。
ただ兄の髪と髯が死ぬまで漆《うるし》のように黒かったのにかかわらず、余のそれらにはいつの間にか銀の筋が疎《まば》らに交っていた。考えて見ると兄は白髪《しらが》の生える前に死んだのである。死ぬとすればその方が屑《いさぎ》よいかも知れない。白髪に鬢《びん》や頬をぽつぽつ冒されながら、まだ生き延びる工夫《くふう》に余念のない余は、今を盛りの年頃に容赦なく世を捨てて逝《ゆ》く壮者に比《くら》べると、何だかきまりが悪いほど未練らしかった。鏡に映るわが表情のうちには、無論はかないと云う心持もあったが、死《し》に損《そく》なったと云う恥《はじ》も少しは交っていた。また「ヴァージニバス・ピュエリスク」の中に、人はいくら年を取っても、少年の時と同じような性情を失わないものだと書いてあったのを、なるほどと首肯《うなず》いて読んだ当時を憶《おも》い出して、ただその当時に立ち戻りたいような気もした。
「ヴァージニバス・ピュエリスク」の著者は、長い病苦に責められながらも、よくその快活の性情を終焉《しゅうえん》まで持ち続けたから、嘘《うそ》は云わない男である。けれども惜しい事に髪の黒いうちに死んでしまった。もし彼が生きて六十七十の高齢に達したら、あるいはこうは云い切れなかったろうと思えば、思われない事もない。自分が二十の時、三十の人を見れば大変に懸隔があるように思いながら、いつか三十が来ると、二十の昔と同じ気分な事が分ったり、わが三十の時、四十の人に接すると、非常な差違を認めながら、四十に達して三十の過去をふり返れば、依
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