けてくれればいいのにと思った。
 修禅寺の太鼓はこの時にどんと鳴るのである。そうしてことさらに余を待ち遠しがらせるごとく疎《まば》らな間隔を取って、暗い夜をぽつりぽつりと縫い始める。それが五分と経《た》ち七分と経つうちに、しだいに調子づいて、ついに夕立の雨滴《あまだれ》よりも繁《しげ》く逼《せま》って来る変化は、余から云うともう日の出に間もないと云う報知であった。太鼓を打ち切ってしばらくの後《のち》に、看護婦がやっと起きて室《へや》の廊下の所だけ雨戸を開けてくれるのは何よりも嬉しかった。外はいつでも薄暗く見えた。
 修善寺に行って、寺の太鼓を余ほど精密に研究したものはあるまい。その結果として余は今でも時々どんと云う余音《よいん》のないぶっ切ったような響を余の鼓膜の上に錯覚のごとく受ける。そうして一種云うべからざる心持を繰り返している。
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夢繞星※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1−87−13]※[#「沙」の「少」に代えて「玄」、第3水準1−86−62]露幽[#「夢繞星※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1−87−13]※[#「沙」の「少」に代えて「玄」、第3水準1−86−62]露幽」に白丸傍点]。 夜分形影暗灯愁[#「夜分形影暗灯愁」に白丸傍点]。
旗亭病近修禅寺[#「旗亭病近修禅寺」に白丸傍点]。 一※[#「木+晃」、第3水準1−85−91]疎鐘已九秋[#「一※[#「木+晃」、第3水準1−85−91]疎鐘已九秋」に白丸傍点]。
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        三十

 山を分けて谷一面の百合《ゆり》を飽《あ》くまで眺めようと心にきめた翌日《あくるひ》から床の上に仆《たお》れた。想像はその時限りなく咲き続く白い花を碁石《ごいし》のように点々と見た。それを小暗《おぐら》く包もうとする緑の奥には、重い香《か》が沈んで、風に揺られる折々を待つほどに、葉は息苦しく重なり合った。――この間宿の客が山から取って来て瓶《へい》に挿《さ》した一輪の白さと大きさと香《かおり》から推して、余は有るまじき広々とした画《え》を頭の中に描いた。
 聖書にある野の百合とは今云う唐菖蒲《からしょうぶ》の事だと、その唐菖蒲を床に活けておいた時、始めて芥舟君《かいしゅうくん》から教わって、それではまるで野の百合の感じが違うようだがと話し合った一月前《ひとつきまえ》も思い出された。聖書と関係の薄い余にさえ、檜扇《ひおうぎ》を熱帯的に派出《はで》に仕立てたような唐菖蒲は、深い沈んだ趣《おもむき》を表わすにはあまり強過ぎるとしか思われなかった。唐菖蒲はどうでもよい。余が想像に描いた幽《かす》かな花は、一輪も見る機会のないうちに立秋に入《い》った。百合は露《つゆ》と共に摧《くだ》けた。
 人は病むもののために裏の山に入《い》って、ここかしこから手の届く幾茎《いくくき》の草花を折って来た。裏の山は余の室《へや》から廊下伝いにすぐ上《のぼ》る便《たより》のあるくらい近かった。障子《しょうじ》さえ明けておけば、寝ながら縁側《えんがわ》と欄間《らんま》の間を埋《うず》める一部分を鼻の先に眺《なが》める事もできた。その一部分は岩と草と、岩の裾《すそ》を縫うて迂回《うかい》して上《のぼ》る小径《こみち》とから成り立っていた。余は余のために山に上《のぼ》るものの姿が、縁の高さを辞して欄間の高さに達するまでに、一遍影を隠して、また反対の位地から現われて、ついに余の視線のほかに没してしまうのを大いなる変化のごとくに眺めた。そうして同じ彼等の姿が再び欄間の上から曲折して下《くだ》って来るのを疎《うと》い眼で眺めた。彼らは必ず粗《あら》い縞《しま》の貸浴衣《かしゆかた》を着て、日の照る時は手拭《てぬぐい》で頬冠《ほおかむ》りをしていた。岨道《そばみち》を行くべきものとも思われないその姿が、花を抱《かか》えて岩の傍《そば》にぬっと現われると、一種芝居にでも有りそうな感じを病人に与えるくらい釣合《つりあい》がおかしかった。
 彼等の採《と》って来てくれるものは色彩の極《きわ》めて乏しい野生の秋草であった。
 ある日しんとした真昼に、長い薄《すすき》が畳に伏さるように活けてあったら、いつどこから来たとも知れない蟋蟀《きりぎりす》がたった一つ、おとなしく中ほどに宿《とま》っていた。その時薄は虫の重みで撓《しな》いそうに見えた。そうして袋戸《ふくろど》に張った新らしい銀の上に映る幾分かの緑が、暈《ぼか》したように淡くかつ不分明《ふぶんみょう》に、眸《ひとみ》を誘うので、なおさら運動の感覚を刺戟《しげき》した。
 薄は大概すぐ縮《ちぢ》れた。比較的長く持つ女郎花《おみなえし》さえ眺めるにはあまり色素が足りなかった。ようやく秋草の淋《さみ》しさを物憂《ものう》
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