えている彼の姿とを、根気よく描き去り描き来《きた》ってやまなかった。
 今はこの想像の鏡もいつとなく曇って来た。同時に、生き返ったわが嬉しさが日に日にわれを遠ざかって行く。あの嬉しさが始終《しじゅう》わが傍《かたわら》にあるならば、――ドストイェフスキーは自己の幸福に対して、生涯《しょうがい》感謝する事を忘れぬ人であった。

        二十二

 余はうとうとしながらいつの間《ま》にか夢に入《い》った。すると鯉《こい》の跳《は》ねる音でたちまち眼が覚《さ》めた。
 余が寝ている二階座敷の下はすぐ中庭の池で、中には鯉がたくさんに飼ってあった。その鯉が五分に一度ぐらいは必ず高い音を立ててぱしゃりと水を打つ。昼のうちでも折々は耳に入った。夜はことに甚《はなはだ》しい。隣りの部屋も、下の風呂場も、向うの三階も、裏の山もことごとく静まり返った真中《まなか》に、余は絶えずこの音で眼を覚ました。
 犬の眠りと云う英語を知ったのはいつの昔か忘れてしまったが、犬の眠りと云う意味を実地に経験したのはこの頃が始めてであった。余は犬の眠りのために夜《よ》ごと悩まされた。ようやく寝ついてありがたいと思う間もなく、すぐ眼が開《あ》いて、まだ空は白まないだろうかと、幾度《いくたび》も暁《あかつき》を待《ま》ち佗《わ》びた。床《とこ》に縛《しば》りつけられた人の、しんとした夜半《よなか》に、ただ独《ひと》り生きている長さは存外な長さである。――鯉が勢《いきおい》よく水を切った。自分の描いた波の上を叩《たた》く尾の音で、余は眼を覚ました。
 室《へや》の中は夕暮よりもなお暗い光で照らされていた。天井から下がっている電気灯の珠《たま》は黒布《くろぬの》で隙間《すきま》なく掩《おい》がしてあった。弱い光りはこの黒布の目を洩《も》れて、微《かす》かに八畳の室を射た。そうしてこの薄暗い灯影《ひかげ》に、真白な着物を着た人間が二人|坐《すわ》っていた。二人とも口を利《き》かなかった。二人とも動かなかった。二人とも膝《ひざ》の上へ手を置いて、互いの肩を並べたままじっとしていた。
 黒い布で包んだ球を見たとき、余は紗《しゃ》で金箔《きんぱく》を巻いた弔旗《ちょうき》の頭を思い出した。この喪章《もしょう》と関係のある球の中から出る光線によって、薄く照らされた白衣《はくい》の看護婦は、静かなる点において、行儀の
前へ 次へ
全72ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング