に劇《はげ》しい喧嘩《けんか》を挑《いど》んだ末、さんざんに打ち据《す》えられて、手も足も利《き》かなくなった時のごとくに吾を鈍《にぶ》く叩《たた》きこなしていた。砧《きぬた》に擣《う》たれた布は、こうもあろうかとまで考えた。それほど正体なくきめつけられ了《おわ》った状態を適当に形容するには、ぶちのめす[#「ぶちのめす」に傍点]と云う下等社会で用いる言葉が、ただ一つあるばかりである。少しでも身体を動かそうとすると、関節《ふしぶし》がみしみしと鳴った。
 昨日《きのう》まで狭い布団《ふとん》に劃《かく》された余の天地は、急にまた狭くなった。その布団のうちの一部分よりほかに出る能力を失った今の余には、昨日《きのう》まで狭く感ぜられた布団がさらに大きく見えた。余の世界と接触する点は、ここに至ってただ肩と背中と細長く伸べた足の裏側に過ぎなくなった。――頭は無論枕に着いていた。
 これほどに切りつめられた世界に住む事すら、昨夕《ゆうべ》は許されそうに見えなかったのにと、傍《はた》のものは心の中《うち》で余のために観じてくれたろう。何事も弁《わきま》えぬ余にさえそれが憐《あわ》れであった。ただ身の布団に触れる所のみがわが世界であるだけに、そうしてその触れる所が少しも変らないために、我と世界との関係は、非常に単純であった。全くスタチック(静《せい》)であった。したがって安全であった。綿《わた》を敷いた棺《かん》の中に長く寝て、われ棺を出でず、人棺を襲《おそ》わざる亡者《もうじゃ》の気分は――もし亡者に気分が有り得るならば、――この時の余のそれと余りかけ隔《へだ》ってはいなかったろう。
 しばらくすると、頭が麻痺《しび》れ始めた。腰の骨が骨だけになって板の上に載《の》せられているような気がした。足が重くなった。かくして社会的の危険から安全に保証された余|一人《いちにん》の狭い天地にもまた相応の苦しみができた。そうしてその苦痛を逃《のが》れるべく余は一寸《いっすん》のほかにさえ出る能力を持たなかった。枕元にどんな人がどうして坐《すわ》っているか、まるで気がつかなかった。余を看護するために、余の視線の届かぬ傍《かたわ》らを占めた人々の姿は、余に取って神のそれと一般であった。
 余はこの安らかながら痛み多き小世界にじっと仰向《あおむけ》に寝たまま、身の及ばざるところに時々眼を走らした。そ
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