しても至極《しごく》と思われるが、肉体と共に活動する心的現象に斯様《かよう》の作用があったにしたところで、わが暗中の意識すなわちこれ死後の意識とは受取れない。
 大いなるものは小さいものを含んで、その小さいものに気がついているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、己《おのれ》らの寄り集って拵《こし》らえている全部に対しては風馬牛《ふうばぎゅう》のごとく無頓着《むとんじゃく》であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、また結び合せたりして得た結論である。それと同じく、個人全体の意識もまたより大いなる意識の中《うち》に含まれながら、しかもその存在を自覚せずに、孤立するごとくに考えているのだろうとは、彼がこの類推《るいすい》より下《くだ》し来《きた》るスピリチズムに都合よき仮定である。
 仮定は人々の随意であり、また時にとって研究上必要の活力でもある。しかしただ仮定だけでは、いかに臆病の結果幽霊を見ようとする、また迷信の極《きょく》不可思議を夢みんとする余も、信力をもって彼らの説を奉ずる事ができない。
 物理学者は分子の容積を計算して蚕《かいこ》の卵にも及ばぬ(長さ高さともに一ミリメターの)立方体に一千万を三乗した数が這入《はい》ると断言した。一千万を三乗した数とは一の下に零《れい》を二十一付けた莫大《ばくだい》なものである。想像を恣《ほしいま》まにする権利を有する吾々《われわれ》もこの一の下に二十一の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。
 形而下《けいじか》の物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみもっともと首肯《うなず》くだけである。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云うまでもない。よし物理学者の分子に対するごとき明暸《めいりょう》な知識が、吾人《ごじん》の内面生活を照らす機会が来たにしたところで、余の心はついに余の心である。自分に経験のできない限り、どんな綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
 余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。はたして時間と空間を超越した。しかしその超越した事が何の能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事だけが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大
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