3−21]将衰」に白丸傍点]。 廓寥天尚在[#「廓寥天尚在」に白丸傍点]。 高樹独余枝[#「高樹独余枝」に白丸傍点]。
晩懐如此澹[#「晩懐如此澹」に白丸傍点]。 風露入詩遅[#「風露入詩遅」に白丸傍点]。
[#ここで字下げ終わり]
十六
安らかな夜はしだいに明けた。室《へや》を包む影法師が床《とこ》を離れて遠退《とおの》くに従って、余はまた常のごとく枕辺《まくらべ》に寄る人々の顔を見る事ができた。その顔は常の顔であった。そうして余の心もまた常の心であった。病《やまい》のどこにあるかを知り得ぬほどに落ちついた身を床の上に横《よこた》えて、少しだに動く必要をもたぬ余に、死のなお近く徘徊《はいかい》していようとは全く思い設けぬところであった。眼を開けた時余は昨夕《ゆうべ》の騒ぎを(たとい忘れないまでも)ただ過去の夢のごとく遠くに眺めた。そうして死は明け渡る夜と共に立《た》ち退《の》いたのだろうぐらいの度胸でも据《すわ》ったものと見えて、何らの掛念《けねん》もない気分を、障子《しょうじ》から射し込む朝日の光に、心地《ここち》よく曝《さら》していた。実は無知な余を詐《いつ》わり終《おお》せた死は、いつの間にか余の血管に潜《もぐ》り込んで、乏《とも》しい血を追い廻しつつ流れていたのだそうである。「容体《ようだい》を聞くと、危険なれどごく安静にしていれば持ち直すかも知れぬという」とは、妻《さい》のこの日の朝の部に書き込んだ日記の一句である。余が夜明まで生きようとは、誰も期待していなかったのだとは後から聞いて始めて知った。
余は今でも白い金盥《かなだらい》の底に吐き出された血の色と恰好《かっこう》とを、ありありとわが眼の前に思い浮べる事ができる。ましてその当分は寒天《かんてん》のように固まりかけた腥《なまぐさ》いものが常に眼先に散らついていた。そうして吾《わ》が想像に映る血の分量と、それに起因した衰弱とを比較しては、どうしてあれだけの出血が、こう劇《はげ》しく身体《からだ》に応《こた》えるのだろうといつでも不審に堪《た》えなかった。人間は脈の中の血を半分失うと死に、三分の一失うと昏睡《こんすい》するものだと聞いて、それに吾《われ》とも知らず妻《さい》の肩に吐きかけた生血《なまち》の容積《かさ》を想像の天秤《てんびん》に盛って、命の向う側に重《おも》りとして
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