にほとんど見当らぬ風流と云う趣をのみ愛していた。その風流のうちでもここに挙《あ》げた句に現れるような一種の趣だけをとくに愛していた。
  秋風や唐紅《からくれない》の咽喉仏《のどぼとけ》
という句はむしろ実況であるが、何だか殺気があって含蓄《がんちく》が足りなくて、口に浮かんだ時からすでに変な心持がした。
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風流人未死[#「風流人未死」に白丸傍点]。 病裡領清閑[#「病裡領清閑」に白丸傍点]。
日々山中事[#「日々山中事」に白丸傍点]。 朝々見碧山[#「朝々見碧山」に白丸傍点]。
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 詩《し》に圏点《けんてん》のないのは障子《しょうじ》に紙が貼《は》ってないような淋《さび》しい感じがするので、自分で丸を付けた。余のごとき平仄《ひょうそく》もよく弁《わきま》えず、韻脚《いんきゃく》もうろ覚えにしか覚えていないものが何を苦しんで、支那人にだけしか利目《ききめ》のない工夫《くふう》をあえてしたかと云うと、実は自分にも分らない。けれども(平仄|韻字《いんじ》はさておいて)、詩の趣《おもむき》は王朝以後の伝習で久しく日本化されて今日《こんにち》に至ったものだから、吾々くらいの年輩の日本人の頭からは、容易にこれを奪い去る事ができない。余は平生事に追われて簡易な俳句すら作らない。詩となると億劫《おっくう》でなお手を下《くだ》さない。ただ斯様《かよう》に現実界を遠くに見て、杳《はるか》な心にすこしの蟠《わだかま》りのないときだけ、句も自然と湧《わ》き、詩も興に乗じて種々な形のもとに浮んでくる。そうして後《あと》から顧みると、それが自分の生涯《しょうがい》の中《うち》で一番幸福な時期なのである。風流を盛るべき器《うつわ》が、無作法《ぶさほう》な十七字と、佶屈《きっくつ》な漢字以外に日本で発明されたらいざ知らず、さもなければ、余はかかる時、かかる場合に臨んで、いつでもその無作法とその佶屈とを忍んで、風流を這裏《しゃり》に楽しんで悔いざるものである。そうして日本に他の恰好《かっこう》な詩形のないのを憾《うら》みとはけっして思わないものである。

        六

 始めて読書欲の萌《きざ》した頃、東京の玄耳君《げんじくん》から小包で酔古堂剣掃《すいこどうけんそう》と列仙伝《れつせんでん》を送ってくれた。この列仙伝は帙入《ちついり》の唐本《
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