だか》まって、じっと持《も》ち応《こた》えられない活力を、自然の勢から生命の波動として描出《びょうしゅつ》し来《きた》る方が実際|実《み》の入《い》った生《い》き法《かた》と云わなければなるまい。舞踏でも音楽でも詩歌《しいか》でも、すべて芸術の価値はここに存していると評しても差支《さしつか》えない。
けれども学者オイッケンの頭の中で纏《まと》め上げた精神生活が、現に事実となって世の中に存在し得るや否やに至っては自《おのず》から別問題である。彼オイッケン自身が純一無雑に自由なる精神生活を送り得るや否やを想像して見ても分明《ぶんみょう》な話ではないか。間断なきこの種の生活に身を託せんとする前に、吾人は少なくとも早くすでに職業なき閑人として存在しなければならないはずである。
豆腐屋が気に向いた朝だけ石臼を回して、心の機《はず》まないときはけっして豆を挽《ひ》かなかったなら商買《しょうばい》にはならない。さらに進んで、己《おの》れの好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客をことごとく謝絶したらなおの事商買にはならない。すべての職業が職業として成立するためには、店に公平の灯《ともし》を点《つ》けなければならない。公平と云う美しそうな徳義上の言葉を裏から言い直すと、器械的と云う醜い本体を有しているに過ぎない。一分《いっぷん》の遅速なく発着する汽車の生活と、いわゆる精神的生活とは、正に両極に位する性質のものでなければならない。そうして普通の人は十が十までこの両端を七分三分《しちぶさんぶ》とか六分四分《ろくぶしぶ》とかに交《ま》ぜ合《あ》わして自己に便宜《べんぎ》なようにまた世間に都合の好いように(すなわち職業に忠実なるように)生活すべく天《てん》から余儀なくされている。これが常態である。たまたま芸術の好きなものが、好きな芸術を職業とするような場合ですら、その芸術が職業となる瞬間において、真の精神生活はすでに汚《けが》されてしまうのは当然である。芸術家としての彼は己《おの》れに篤《あつ》き作品を自然の気乗りで作り上げようとするに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、売高《うれだか》の多いものを公《おおや》けにしなくてはならぬからである。
すでに個人の性格及び教育次第で融通の利《き》かなくなりそうなオイッケンのいわゆる自由なる精神生活は、現今の社会組織の上から見ても、これ
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