る働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙《せつ》が溢《あふ》れていると思うと答えた。馬鹿律義《ばかりちぎ》なものに厭味《いやみ》も利《き》いた風もありようはない。そこに重厚な好所《こうしょ》があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際《てぎわ》がないために、やむをえず省略の捷径《しょうけい》を棄《す》てて、几帳面《きちょうめん》な塗抹《とまつ》主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免《まぬか》れがたい。
子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年《えいねん》彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉《とら》え得《え》た試《ためし》がない。また彼の拙に惚《ほ》れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日《こんにち》、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中《うち》に、確《たしか》にこの一拙字を認める事のできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論
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